第七章 薩摩に於ける宗學
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高島秀彰、入力
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[#4字下げ][#大見出し]第七章 薩摩に於ける宗學[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【二〇】島津忠昌[#中見出し終わり]

應永《おうえい》十八|年《ねん》八|月《ぐわつ》、島津元久《しまづもとひさ》の逝《ゆ》くや、伊集院頼久《いじふゐんよりひさ》は、繼嗣《けいし》なきを奇貨《きくわ》とし、其子《そのこ》初犬千代《はついぬちよ》を相續者《さうぞくしや》となした。元久《もとひさ》の弟《おとうと》久豐《ひさとよ》は是《これ》を聞《き》いて、日向《ひふが》より鹿兒島《かごしま》に駈《か》け附《つ》けた。彼《かれ》は宛《あたか》も途上《とじやう》に於《おい》て、葬式《さうしき》の行列《ぎやうれつ》に出會《しゆつくわい》した。彼《かれ》は馬《うま》より飛《と》び下《お》り、初犬千代《はついぬちよ》の手《て》より、元久《もとひさ》の位牌《ゐはい》を奪《うば》ひ、之《これ》を葬《ほうむ》り、自立《じりつ》して守護職《しゆごしよく》となつた。彼《かれ》が島津氏《しまづし》の八|代《だい》で、其子《そのこ》忠國《たゞくに》が九|代《だい》、忠國《たゞくに》の子《こ》立久《たつひさ》[#ルビの「たつひさ」は底本では「たいひさ」]が十|代《だい》、立久《たつひさ》の子《こ》忠昌《たゞまさ》が十一|代《だい》である。
此《こ》の間《あひだ》に於《お》ける島津氏《しまづし》の勢力《せいりよく》は、必《かなら》ずしも隆盛《りゆうせい》と云《い》ふを得《え》なかつた。久豐《ひさとよ》は英武《えいぶ》の君主《くんしゆ》であつた。然《しか》も彼《かれ》の所領《しよりやう》は、鹿兒島《かごしま》、谷山《たにやま》、揖宿《いぶすき》、溝邊《みぞべ》、田萬理《たまり》、敷根《しきね》、※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《めぐり》、末吉《すゑよし》、恒吉《つねよし》、市成《いちなり》、平房《ひらふさ》、百引《もびき》、高熊《たかくま》、鹿屋《しかや》、大姶良《おほえら》、下大隈《しもおほすみ》、財部等《たからべとう》に過《す》ぎなかつた。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]其他《そのた》は皆《み》な群雄割據《ぐんゆうかつきよ》であつた。而《しか》して其《そ》の四|隣《りん》には、日向《ひふが》の伊東《いとう》、求麻《くま》の相良《さがら》、肥後《ひご》の阿蘇等《あそら》、恒《つね》に其隙《そのすき》を覗《うかゞ》うた。されば彼《かれ》及《およ》び其《そ》の後繼者《こうけいしや》が、寧處《ねいしよ》に遑《いとま》なかつたのは、洵《まこと》に餘儀《よぎ》なき次第《しだい》であつた。
忠昌《たゞまさ》は十|代《だい》の立久《たつひさ》の子《こ》で、文明《ぶんめい》六|年《ねん》四|月《ぐわつ》十二|歳《さい》で、父《ちゝ》の跡目《あとめ》を相續《さうぞく》した。彼《かれ》は本來《ほんらい》多病《たびやう》であつたが、其《そ》の氣象《きしやう》は頗《すこぶ》る凛々敷《りゝしく》あつた。文明《ぶんめい》十三|年《ねん》六|月《ぐわつ》、足利幕府《あしかゞばくふ》は、布施下野守《ふせしもづけのかみ》をして、久《ひさ》しく中絶《ちうぜつ》したる、琉球《りうきう》の貢船《こうせん》を、先例《せんれい》の如《ごと》く來《きた》らしむ可《べ》く、忠昌《たゞまさ》に命《めい》じて、琉球王《りうきうわう》に諭《さと》さしめた。而《しか》して其《そ》の八|月《ぐわつ》には、貢船《こうせん》來著《らいちやく》した。十五|年《ねん》四|月《ぐわつ》には、又《ま》た飯尾大和守《いひをやまとのかみ》、布施下野守《ふせしもづけのかみ》をして、奉書《ほうしよ》を以《もつ》て、日向國《ひふがのくに》要害《えうがい》、渡唐船《ととうせん》警固《けいご》を嚴重《げんぢゆう》に奉行《ぶぎやう》す可《べ》く、島津《しまづ》の族人《ぞくじん》に達《たつ》した。
當時《たうじ》日向《ひふが》が、支那貿易《しなぼうえき》の要地《えうち》であつた※[#こと、94-10]は、此《こ》れにて知《し》らるゝ。而《しか》して[#「而して」は底本では「其して」]其《そ》の要港《えうかう》は、飫肥《をび》の福島港《ふくしまかう》であつた。島津氏《しまづし》が此地《このち》を伊東氏《いとうし》と爭《あらそ》うたのも、對明貿易《たいみんぼうえき》の利《り》を爭《あらそ》うたものと、解釋《かいしやく》することが出來《でき》る。〔日本宋學史〕[#「〔日本宋學史〕」は1段階小さな文字]而《しか》して其《そ》の重《おも》なる貿易品《ぼうえきひん》が、此地《このち》の特産《とくさん》たる硫黄《いわう》であつた事《こと》は、言《げん》を俟《ま》たぬ。
飫肥領主《をびりやうしゆ》新納忠續《にひろたゞつぐ》と、櫛間領主《くしまりやうしゆ》島津久逸《しまづひさとし》とは、互《たがひ》に軋轢《あつれき》し、遂《つひ》に戰《たゝかひ》を交《まじ》へた。此《こ》れは文明《ぶんめい》十六|年《ねん》の十|月《ぐわつ》の事《こと》だ。忠昌《たゞまさ》は援兵《ゑんぺい》を派《は》して、忠續《たゞつぐ》を扶《たす》け、久逸《ひさとし》を伐《う》つた。然《しか》も久逸《ひさとし》は善《よ》く戰《たゝか》うた。而《しか》して此《こ》の内訌《ないこう》に乘《じよう》じて、伊東祐國《いとうすけくに》は飫肥《をび》を圍《かこ》んだ。文明《ぶんめい》十七|年《ねん》六|月《ぐわつ》、忠昌《たゞまさ》は自《みづか》ら將《しやう》として飫肥《をび》を救《すく》ひ、伊東祐國《いとうすけくに》を斬《き》り、島津久逸《しまづひさとし》をして降《くだ》らしめた。而《しか》して文明《ぶんめい》十八|年《ねん》十|月《ぐわつ》には、島津忠廉《しまづたゞかど》を以《もつ》て櫛間《くしま》、飫肥《をび》の領主《りやうしゆ》とした。そは此地《このち》が最《もつと》も重要《ぢゆうえう》なるが故《ゆゑ》に、守將《しゆしやう》其人《そのひと》を選擇《せんたく》したのぢや。忠廉《たゞかど》は當時《たうじ》に於《お》ける、文武《ぶんぶ》の達人《たつじん》であつた。
忠昌《たゞまさ》は病《やまひ》を療《れう》せんが爲《た》めに、朝廷《てうてい》及《およ》び幕府《ばくふ》に請《こ》うて、竹田法印昭慶《たけだほふいんせうけい》を招《まね》いた。彼《かれ》が自《みづか》ら將《しやう》として飫肥《をび》を救《すく》はんとするや、昭慶《せうけい》は之《これ》を諫止《かんし》した。然《しか》も忠昌《たゞまさ》は平生《へいぜい》の療養《れうやう》は、有事《いうじ》の用《よう》に供《きよう》せんが爲《た》めぢや。今《いま》は一|身《しん》の健康如何《けんこういかん》を顧慮《こりよ》するの場合《ばあひ》ではないと答《こた》へた。竹田昭慶《たけだせうけい》は、斯《か》くては折角《せつかく》朝廷《てうてい》、及《およ》び將軍家《しやうぐんけ》の命《めい》を享《う》けて來《き》た目的《もくてき》に反《そむ》くから、此《これ》より御免《ごめん》を被《かうむ》ると云《い》うたが、忠昌《たゞまさ》は彼《かれ》を慰諭《ゐゆ》して、貴説《きせつ》尤《もつとも》ではあるが、予《よ》の出陣《しゆつぢん》は一|大事《だいじ》であつて、とても思《おも》ひ止《とゞま》る譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。就《つい》ては御身《おんみ》も予《よ》と共《とも》に、飫肥《をび》に赴《おもむ》かれ、陣中《ぢんちう》にて治療《ちれう》を加《くは》へ給《たま》はらば奈何《いかん》と云《い》うた。昭慶《せうけい》も其《そ》の志《こゝろざし》に感《かん》じて、同伴《どうはん》した。忠昌《たゞまさ》は首尾克《しゆびよ》く凱旋《がいせん》するを得《え》た。
忠昌《たゞまさ》は決《けつ》して凡庸《ぼんよう》の君主《くんしゆ》ではなかつた。併《しか》し其《そ》の周圍《しうゐ》の事情《じじやう》は、彼《かれ》をして頗《すこぶ》る困厄《こんやく》に陷《おとしい》れた。島津國史《しまづこくし》に曰《いは》く、『國勢《こくせい》|不[#レ]振《ふるはずして》、強臣《きやうしん》跋扈《ばつこす》、公志《こうのこゝろざしは》|在[#二]靖難[#一]《せいなんにあるも》、迄《つひに》|無[#二]成功[#一]《せいこうなし》。』と、如何《いか》にも要領《えうりやう》を得《え》て居《を》る文句《もんく》である。忠昌《たゞまさ》の身體《しんたい》は、其《そ》の英氣《えいき》に副《そ》はず、忠昌《たゞまさ》の手腕《しゆわん》は、其《そ》の志望《しばう》に伴《ともな》はず。彼《かれ》は怏々《あう/\》として自《みづか》ら樂《たの》しまなかつた。永正《えいしやう》五|年《ねん》二|月《ぐわつ》十五|日《にち》、彼《かれ》は西行法師《さいぎやうほふし》の『願《ねがは》くは花《はな》の下《もと》にて春《はる》死《し》なん、其《そ》のきさらぎの望月《もちづき》の頃《ころ》』の和歌《わか》を誦《しよう》し、自殺《じさつ》した。時《とき》に年《とし》四十六。奈色原助《ならはらすけ》八、殉死《じゆんし》した。

[#5字下げ][#中見出し]【二一】島津忠昌と桂菴和尚[#中見出し終わり]

島津忠昌《しまづたゞまさ》の名《な》は、寧《むし》ろ其《そ》の武功《ぶこう》よりも、文事《ぶんじ》によりて記憶《きおく》せらる。そは彼自《かれみづか》ら其人《そのひと》ではなかつたが、彼《かれ》に因《よ》りて、宋學者《そうがくしや》たる禪※[#「にんべん+會」、第4水準2-3-1]《ぜんそう》桂菴玄樹《けいあんげんじゆ》を、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》に致《いた》し、桂菴《けいあん》に由《よ》りて、程朱《ていしゆ》の學《がく》を輸入《ゆにふ》したからだ。而《しか》して程朱《ていしゆ》の學《がく》が、薩摩氣質《さつまかたぎ》の養成《やうせい》に、少《すくな》からざる貢獻《こうけん》を爲《な》した※[#こと、97-5]は、著明《ちよめい》の事實《じじつ》である。
日本《にほん》の宋學《そうがく》は、少《すくな》くとも禪※[#「にんべん+會」、第4水準2-3-1]《ぜんそう》の手《て》にて發育《はついく》せられ、成長《せいちやう》した。本家《ほんけ》の支那《しな》にては、程朱《ていしゆ》其《そ》の人々《ひと/″\》は、佛教《ぶつけう》を異端《いたん》として、極力《きよくりよく》之《これ》を排撃《はいげき》したが、其實《そのじつ》は宋學《そうがく》と禪學《ぜんがく》とは、人《ひと》の心《こゝろ》を本體《ほんたい》とする根本義《こんぽんぎ》に於《おい》て、一|致《ち》して居《を》る。要《えう》するに孔夫子《こうふうし》の道《みち》は、治國平天下《ちこくへいてんか》の道《みち》である、六|藝《げい》の道《みち》である。漢唐《かんとう》の學者《がくしや》は、只《た》だ訓詁《くんこ》を事《こと》とし、文字《もんじ》の詮鑿《せんさく》にのみ流《なが》れたれども、何《いづ》れも其《そ》の本旨《ほんし》を取《と》り違《ちが》へては居《を》らぬ。然《しか》るに宋儒《そうじゆ》が性理《せいり》の學《がく》を講《かう》じて以來《いらい》、孔夫子《こうふうし》の道《みち》は、全《まつた》く義理《ぎり》の學問《がくもん》と爲《な》つた。我國《わがくに》に於《おい》て、禪※[#「にんべん+會」、第4水準2-3-1]《ぜんそう》が宋學《そうがく》を傳《つた》へたのは、當時《たうじ》學問其物《がくもんそのもの》が、殆《ほとん》ど全《まつた》く禪※[#「にんべん+會」、第4水準2-3-1]《ぜんそう》の手《て》に歸《き》したからでもあらうが、他《た》の理由《りいう》は、宋學《そうがく》と禪學《ぜんがく》[#ルビの「ぜんがく」は底本では「ぞんがく」]とが、其《そ》の精神氣脈《せいしんきみやく》に於《おい》て、互《たがひ》に相通《あひつう》ずる所《ところ》があるからだ。其《そ》の證據《しようこ》は、程子《ていし》の高弟《かうてい》たる楊龜山等《やうきざんら》が、師《し》の死後《しご》、佛法《ぶつぽふ》に宗旨換《しうしがへ》したるを見《み》ても、判知《わか》る。
足利時代《あしかゞじだい》に於《おい》ては、我國《わがくに》の禪學《ぜんがく》は、殆《ほとん》ど文字禪《もじぜん》となり濟《すま》した。即《すなは》ち一|方《ぱう》は、蘇黄《そわう》に辨香《べんかう》する、翰墨《かんぼく》、詩文《しぶん》の流行《りうかう》となり、他方《たはう》は程朱《ていしゆ》に隨喜《ずゐき》する、崇論《すうろん》、論議《ろんぎ》、講説《かうせつ》の風尚《ふうしやう》を來《きた》した。桂菴玄樹《けいあんげんじゆ》の如《ごと》きも、亦《ま》た其《そ》の一|人《にん》であつた。
彼《かれ》は應永《おうえい》三十四|年《ねん》、周防山口《すはうやまぐち》に生《うま》れた。當時《たうじ》の山口《やまぐち》は、支那《しな》、朝鮮交通《てうせんかうつう》の要衝《えうしよう》であつた。されば彼《かれ》は生《うま》れぬ前《まへ》より、海外《かいぐわい》の氣分《きぶん》を呼吸《こきふ》した。蚤《つと》に上京《じやうきやう》し、南禪寺《なんぜんじ》の双桂院《さうけいゐん》に入《い》り、惟肖得巖《ゐせうとくがん》に從遊《じゆういう》し、儒釋古今《じゆしやくここん》の書《しよ》を參究《さんきう》した。學成《がくな》りて長門赤間關《ながとあかまがせき》の永福寺《えいふくじ》を董《とう》し、倪士毅《げいしき》四|書輯釋《しよしふしやく》、及《およ》び永樂勅選《えいらくちよくせん》の四|書《しよ》、五|經大全等《きやうだいぜんとう》を讀《よ》んで、愈《いよい》よ得《う》る所《ところ》があつた。
偶《たまた》ま遣明使節《けんみんしせつ》の撰擇《せんたく》あるや、惟肖等《ゐせうら》は、八十|餘人《よにん》の知名《ちめい》の衲子《なふし》を招集《せうしふ》し、大梅々子《だいばい/\し》の題《だい》を課《くわ》して、其才《そのさい》を試《こゝろ》みた。桂菴《けいあん》直《たゞ》ちに應《こた》へて曰《いは》く、『大梅梅子鐵團々《だいばいばいしてつだん/\》。八十|餘人《よにん》|下[#レ]嘴難《くちばしをくだしがたし》。今日《こんにち》|當[#レ]機《きにあたりて》百雜《ひやくざつ》碎《くだけ》。那邊《なへん》一核《いつかく》|與[#二]他看[#一]《たのみるにまかす》。』と。此《こゝ》に於《おい》て惟肖等《ゐせうら》は彼《かれ》を推擧《すゐきよ》した。斯《か》くて彼《かれ》は應仁《おうにん》元年《ぐわんねん》、正使《せいし》建仁寺《けんにんじ》の天與《てんよ》清啓《せいけい》の一|行《かう》に列《れつ》し、第《だい》三|號船《がうせん》の監務《かんむ》として入明《にふみん》し、北京《ぺきん》に赴《おもむ》き憲宗皇帝《けんそうくわうてい》に謁《えつ》した。翌年《よくねん》元旦《ぐわんたん》は、大明宮《だいみんきゆう》に朝《てう》した。是《こ》れ實《じつ》に明《みん》の成化《せいくわ》四|年《ねん》、彼《かれ》が四十二|歳《さい》の時《とき》であつた。爾來《じらい》彼《かれ》は蘇抗《そかう》の間《あひだ》を往來《わうらい》し、在留《ざいりう》七|年《ねん》、觀風《くわんぷう》、詠懷《えいくわい》の外《ほか》、專《もつぱ》ら程朱《ていしゆ》の學《がく》を講《かう》じた。一|翁《おう》の宗派目子《しゆうはもくし》に曰《いは》く、
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桂菴南遊而《けいあんなんいうして》|在[#二]蘇抗之間[#一]者《そかうのかんにあるもの》七|年《ねん》。……|依[#二]學校諸先生[#一]《がくかうしよせんせいによりて》、|聞[#二]四書六經新註之講義者[#一]《ししよりくきやうしんちゆうのかうぎなるものをきゝて》、熟矣《じゆくせり》。……|新註《しんちゆうとは》、程子朱子之義也《ていししゆしのぎなり》。
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と。彼《かれ》は文明《ぶんめい》五|年《ねん》に歸朝《きてう》した。然《しか》も干戈《かんくわ》紛々《ふん/\》、京洛《きやうらく》に赴《おもむ》かんとして、長門《ながと》に抵《いた》つたが、南禪寺《なんぜんじ》其他《そのた》の名刹《めいさつ》も、既《すで》に灰燼《くわいじん》となつたと聞《き》き、石見《いはみ》に赴《おもむ》き、文明《ぶんめい》八|年《ねん》には錫《しやく》を九|州《しう》に飛《とば》し、豐《ほう》、筑《ちく》、肥《ひ》の諸州《しよしう》を歴遊《れきいう》した。而《しか》して肥後《ひご》の菊池爲邦《きくちためくに》、重朝《しげとも》、特《とく》に其《そ》の老臣《らうしん》隈部忠直《くまべたゞなほ》に於《おい》て、其《そ》の同臭味《どうしうみ》を見出《みいだ》した。
當時《たうじ》の菊池氏《きくちし》は、武重《たけしげ》、武光時代《たけみつじだい》の盛運《せいうん》ではなかつたが、所謂《いはゆ》る芳根《はうこん》を守《まも》りて晩節《ばんせつ》を全《まつた》うし、肥後《ひご》の一|角《かく》に武《ぶ》を修《をさ》め、學《がく》を講《かう》じ、一|個《こ》の文化《ぶんくわ》の天地《てんち》を維持《ゐぢ》して居《ゐ》た[#「維持《ゐぢ》して居《ゐ》た」は底本では「維持《ゐぢ》した居《ゐ》た」]。横川和尚《わうせんをしやう》が、『西州《せいしう》風俗《ふうぞく》|聽[#二]人説[#一]《ひとのとくにまかす》。戸々《こゝ》民村《みんそん》夜《よる》|誦[#レ]書《しよをよむ》。』と云《い》うたのは、必《かなら》ずしも溢辭《いつじ》のみではなかつた。彼《かれ》は隅府《わいふ》にある一|年餘《ねんよ》であつた。彼《かれ》が文明《ぶんめい》九|年《ねん》二|月《ぐわつ》、隅府《わいふ》にて釋奠《せきてん》を觀《み》て作《つく》りたる七|律《りつ》は、人口《じんこう》に膾炙《くわいしや》して居《ゐ》る。
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太平奇策至誠中《たいへいきさくしせいのうち》。春奠《しゆんてん》賁筵《ふんえん》|陪[#二]※[#「さんずい+絆のつくり」、第3水準1-86-63]宮[#一]《はんぎゆうにばいす》。泗水吹添菊潭碧《しすゐふきそうてきくたんみどりに》。寒雲染出杏檀紅《かんうんそめいだしてきやうだんくれなゐ》。一|家有政《かいうせい》九|州化《しうをくわし》。萬古斯文《ばんこしぶん》四|海同《かいおなじ》。|絃誦未[#レ]終花欲[#レ]暮《げんしよういまだをはざるにはなくれんとほつす》。|香烟撲[#レ]袂晝簾風《かうえんたもとをうつぐわれんのかぜ》。
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然《しか》も彼《かれ》の隈府《わいふ》にあるや、幾《いくばく》もなく島津忠昌《しまづたゞまさ》に招《まね》かれて、薩摩《さつま》に赴《おもむ》かんとしたが、其《そ》の内亂《ないらん》を聞《き》いて果《はた》さなかつた。文明《ぶんめい》九|年《ねん》正月《しやうぐわつ》には、既《すで》に旅裝《りよさう》を整《とゝの》へて、左《さ》の絶句《ぜつく》を賦《ふ》した。
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肥陽城外薩陽城《ひやうじやうぐわいさつやうじやう》|。聞説今年收[#二]甲兵[#一]《きくならくこんねんかふへいををさむと》。萬里雲飛駕言邁《ばんりくもとびがしてこゝにゆく》。|風流太守愛[#レ]※[#「にんべん+會」、第4水準2-3-1]清《ふうりうのたいしゆそうををしみてきよし》。
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然《しか》も彼《かれ》が薩摩《さつま》に入《い》りたるは、文明《ぶんめい》十|年《ねん》二|月《ぐわつ》であつた。其《そ》の二十一|日《にち》、龍雲寺《りゆううんじ》に著《ちやく》するや、前韵《ぜんゐん》に次《じ》して曰《いは》く。
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花柳風前春滿[#レ]城《くわりうふうぜんはるしろにみち》。|太平家國不[#レ]言[#レ]兵《たいへいかこくへいをいはず》。白頭老矣紅塵客《はくとうおいたりこうぢんのきやく》|。纔入[#二]此門[#一]心跡清《わづかにこのもんにいりてしんせききよし》。
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と。彼《かれ》は市來《いちき》に於《おい》て忠昌《たゞまさ》に謁《えつ》した。此《こ》の時《とき》忠昌《たゞまさ》十六|歳《さい》、桂菴《けいあん》五十二|歳《さい》であつた。彼《かれ》は『太平《たいへい》家國《かこく》|不[#レ]言[#レ]兵《へいをいはず》』と歌《うた》うたが、是《こ》れもほんの當座《たうざ》の事《こと》で、相變《あひかは》らず、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》は戰亂《せんらん》の衢《ちまた》となつた。

[#5字下げ][#中見出し]【二二】桂菴の感化[#中見出し終わり]

抑《そもそ》も桂菴《けいあん》を聘《へい》したのは、何人《なんびと》の發意《ほつい》であつた乎《か》、將《は》た何《なん》の爲《た》めであつた乎《か》。當時《たうじ》の島津忠昌《しまづたゞまさ》は、漸《やうや》く十六|歳《さい》の青年《せいねん》であれば、恐《おそ》らくは他《た》に黒幕《くろまく》があつたであらう。又《ま》た單《たん》に風流《ふうりう》の爲《た》めのみならず、多少《たせう》の具體的理由《ぐたいてきりいう》が、あつたものとせねばなるまい。
何《いづ》れにしても島津忠昌《しまづたゞまさ》は、佛法《ぶつぽふ》に無縁《むえん》ではなかつた。桂菴《けいあん》が初《はじ》めて草鞋《わらじ》を解《と》いた龍雲寺《りゆううんじ》は、十|代《だい》の立久《たつひさ》が建立《こんりふ》した寺《てら》である。而《しか》して其《そ》の側室《そくしつ》の子《こ》忠昌《たゞまさ》も、夫人《ふじん》の嫉妬《しつと》にて、殺《ころ》されんとしたが、龍雲寺《りゆううんじ》の喝食《かつじき》となり、源鑒《げんかん》と稱《しよう》した。立久《たつひさ》が病《やまひ》漸《すゝ》むに際《さい》して、彼《かれ》は還俗《げんぞく》し、其翌年《そのよくねん》元服《げんぷく》して、又《また》三|郎忠昌《らうたゞまさ》と名乘《なの》り、其跡《そのあと》を相續《さうぞく》したのだ。彼《かれ》が初《はじめ》より桂菴《けいあん》と相得《あいえ》たのは、當然《たうぜん》だ。
忠昌《たゞまさ》は軈《やが》て鹿兒島《かごしま》の田《た》ノ浦《うら》に、桂樹院《けいじゆゐん》を剏《はじ》め、寺祿《じろく》を與《あた》へ、桂菴《けいあん》をして、此《こゝ》に居《を》らしめた。所謂《いはゆ》る島陰寺《たういんじ》とは此院《このゐん》の事《こと》だ。後《のち》に城西《じやうせい》に移《うつ》つたが、依然《いぜん》舊稱《きうしよう》を改《あらた》めなかつた。彼《かれ》が詩稿《しかう》を島陰集《たういんしふ》と云《い》ふも、此《これ》に因《ちな》んだのである。
桂菴《けいあん》は文明《ぶんめい》十三|年《ねん》六|月《ぐわつ》、國老《こくらう》伊地知重貞《いちぢしげさだ》と與《とも》に、大學章句《だいがくしやうく》を刊行《かんかう》した。此《こ》の以前《いぜん》には、堺浦《さかひうら》にて刊行《かんかう》したる、正平板《しやうへいばん》の論語集解抔《ろんごしふかいなど》があるが、大學章句《だいがくしやうく》の刊行《かんかう》は、日本《にほん》にて是《こ》れが嚆矢《かうし》だ。而《しか》して僅《わづ》かに十|餘年《よねん》を經《へ》て、延徳《えんとく》四|年《ねん》―明應《めいおう》元年《ぐわんねん》―十|月《ぐわつ》には、桂樹院《けいじゆゐん》に之《これ》を再刊《さいかん》した。此《これ》に徴《ちよう》しても、大學章句《だいがくしやうく》が行《おこな》はれ、其《そ》の需要《じゆよう》の多《おほ》かつた※[#こと、103-1]が判知《わか》る。當時《たうじ》如何《いか》に教化《けうくわ》が行《おこな》はれたるかは、日向《ひふが》の小崎克盛《こざきかつもり》が、『國都《こくと》頃《このごろ》|興[#二]仲尼之道[#一]《ちうぢのみちをおこし》、|移[#二]東魯之風[#一]《とうろのふうをうつす》。』と評《ひやう》したるにて―其《そ》の誇張《くわちやう》の文句《もんく》に、若干《じやくかん》の割引《わりびき》をしても―一|班《ぱん》を知《し》ることが能《あた》ふ。
彼《かれ》は四|書新註《しよしんちゆう》を講《かう》じたのみならず、忠昌《たゞまさ》には尚書蔡傳《しやうしよさいでん》を授《さづ》けた。是《こ》れは彼《かれ》が入明《にふみん》の際《さい》に、研究《けんきう》した所《ところ》で、彼《かれ》が尤《もつと》も精通《せいつう》したものであつた。彼《かれ》に教《をしへ》を受《う》けたる中《なか》には島津勝久《しまづかつひさ》、島津國久《しまづくにひさ》、島津忠廉《しまづたゞかど》、島津忠朝《しまづたゞとも》、新納忠親《にひろたゞちか》、伊地知重貞《いちぢしげさだ》、鳥取正秀等《とつとりまさひでら》が、其重《そのおも》なる者《もの》であつた。又《ま》た越後《ゑちご》よりは長尾某《ながをぼう》、近江《あふみ》よりは佐々木永春等《さゝきながはるら》來《きた》り學《まな》んだ。其他《そのた》龍雲寺玉洞《りゆううんじぎよくどう》、冠岳寺宗壽《くわんがくじそうじゆ》、廣濟寺湖月《くわうさいじこげつ》、妙圓寺愚丘《めうゑんじぐきう》、保泉寺舜田《ほせんじしゆんでん》、大圓寺説溪《だいゑんじせつけい》、正龍寺郁芳《しやうりゆうじいくはう》、福昌寺守※[#「王+宗」、第3水準1-88-11]《ふくしやうじしゆそう》、安養院文傍《あんやうゐんぶんばう》、桂樹院玄章《けいじゆゐんげんしやう》、飫肥《をぴ》安國寺月渚《あんこくじげつしよ》、大隈《おほすみ》安國寺雲夢《あんこくじうんむ》、長隆寺耕月《ちやうりゆうじかうげつ》、了潭寺悦翁《れうたんじえつをう》の徒《と》、枚擧《まいきよ》に遑《いとま》なかつた。彼《かれ》が同學《どうがく》の友《とも》了菴桂悟《れうあんけいご》曰《いは》く、『道價《だうか》|被[#二]于九州[#一]《きうしうをおほひ》、王道《わうだう》|向[#レ]化《くわにむかふ》。』と。是《こ》れは言葉通《ことばどほ》りには、受取《うけと》り難《がた》いが、幾許《いくばく》か事實《じじつ》として、認《みと》めねばなるまい。
併《しか》し桂菴《けいあん》は、又《ま》た島津氏《しまづし》の對明貿易《たいみんぼうえき》にも、貢献《こうけん》したらしく思《おも》はる。彼《かれ》は島津忠廉《しまづたゞかど》と、其《そ》の交情《かうじやう》浹《あつ》く、而《しか》して其《そ》の應酬《おうしう》の作《さく》も、少《すくな》くない。忠廉《たゞかど》は忠昌《たゞまさ》の爲《た》めに、日向飫肥《ひふがをぴ》を守《まも》り、飫肥《をぴ》の福島港《ふくしまこう》は、明國交通《みんこくかうつう》の要港《えうかう》であつた。彼《かれ》が長享《ちやうきやう》二|年《ねん》、日向《ひふが》の安國寺《あんこくじ》を董《とう》したるは、忠廉《たゞかど》の爲《た》めに、外交用文書《ぐわいかうようぶんしよ》の記室《きしつ》としてゞあつたらう。又《ま》た忠廉《たゞかど》の死後《しご》、其子《そのこ》忠朝《たゞとも》の代《だい》に、飫肥《をぴ》[#ルビの「をぴ」は底本では「をひ」]に赴《おもむ》いたのも、其《そ》の爲《た》めであつたらう。〔漢學起源、日本宋學史〕[#「〔漢學起源、日本宋學史〕」は1段階小さな文字]
桂菴《けいあん》の宋學《そうがく》に大功《たいこう》あるは、新註《しんちゆう》に訓點《くんてん》を著《つ》けた※[#こと、104-6]である。彼《かれ》は之《これ》が爲《た》めに『家法倭點《かはふわてん》』の一|書《しよ》を著《あらは》し、四|書《しよ》、五|經《きやう》に古註《こちゆう》と新註《しんちゆう》との區別《くべつ》あるを説《と》き、程朱學《ていしゆがく》の由來《ゆらい》を語《かた》り、四|書《しよ》の讀法《どくはふ》を示《しめ》した。後來《こうらい》文之點《ぶんしてん》として、世《よ》に傳《つた》へたるものが、彼《かれ》の訓點《くんてん》に基《もとづ》くや、疑《うたが》ふ可《べ》くもない。
桂菴《けいあん》の學統《がくとう》は、月渚《げつしよ》、一|翁《をう》を經《へ》て、文之《ぶんし》に傳《つた》へ、文之《ぶんし》に至《いた》りて復《ま》た頗《すこぶ》る振《ふる》うた。文之《ぶんし》の門《もん》に如竹《じよちく》ありて、四|書集註《しよしふちゆう》や、周易傳義等《しうえきでんぎとう》の和點《わてん》を出版《しゆつぱん》した。果《はた》して然《しか》らば、桂菴《けいあん》の感化《かんくわ》は、頗《すこぶ》る廣大《くわうだい》と云《い》はねばならぬ。
彼《かれ》の薩摩《さつま》に來《きた》りて以來《いらい》、三十|年《ねん》、足《あし》遂《つひ》に薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の外《ほか》に出《い》でなかつた。彼《かれ》は此處《こゝ》に安著《あんちやく》したのである乎《か》。天下《てんか》の騷亂《さうらん》は、彼《かれ》をして動《うご》くに遑《いとま》なからしめたのであつた乎《か》。而《しか》して永正《えいしやう》五|年《ねん》六|月《ぐわつ》十五|日《にち》、八十二|歳《さい》にて、其《そ》の棲隱《せいいん》の地《ち》、伊敷《いしき》の東歸菴《とうきあん》に寂《じやく》した。同年《どうねん》二|月《ぐわつ》に、彼《かれ》を聘《へい》したる島津忠昌《しまづたゞまさ》の死《し》したる事《こと》を、併《あは》せ考《かんが》ふれば、偶然《ぐうぜん》ではあるが、不思議《ふしぎ》の因縁《いんねん》と云《い》はねばなるまい。
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