豐臣氏時代丙篇刊行に就て
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]豐臣氏時代丙篇刊行に就て[#大見出し終わり]

今茲《いまこゝ》に豐臣氏時代丙篇《とよとみしじだいへいへん》を、江湖《かうこ》に提供《ていきよう》するは、著者《ちよしや》の愉快《ゆくわい》とする所《ところ》。本册《ほんさつ》は大正《たいしやう》八|年《ねん》十|月《ぐわつ》六|日《か》より起稿《きかう》し、同年《どうねん》十二|月《ぐわつ》二十三|日《にち》に脱稿《だつかう》した。全文《ぜんぶん》殆《ほとん》ど逗子觀瀾亭《づしくわんらんてい》に於《おい》て成《な》つた。即《すなは》ち予《よ》が湘南閑居後《しやうなんかんきよご》、第《だい》一|囘《くわい》の産物《さんぶつ》だ。詳《つまびらか》に言《い》へば、予《よ》は大正《たいしやう》八|年《ねん》八|月《ぐわつ》九|日以降《かいかう》、痾《やまひ》を養《やしな》はんが爲《た》めに、逗子老龍庵《づしらうりゆうあん》に、常住《じやうぢゆう》する※[#こと、1-5]とした。即《すなは》ち淇水老人《きすゐらうじん》の舊巣《ふるす》に入《はい》つた。而《しか》して痾《やまひ》癒《い》えて尚《な》ほ去《さ》らず、其儘《そのまゝ》立《た》て籠《こも》つた。此《こ》れ修史《しうし》に最《もつと》も好都合《かうつがふ》の爲《ため》だ。故《ゆゑ》に觀瀾亭《くわんらんてい》は、今《いま》や予《よ》が野史亭《やしてい》となつた。
予《よ》は目下《もくか》朝鮮役《てうせんえき》を起草中《きさうちゆう》であるが、既《すで》に其《そ》の四|分《ぶん》の三を了《れう》した。即《すなは》ち朝鮮役《てうせんえき》の三|册中《さつちゆう》の上中《じやうちゆう》の兩册《りやうさつ》を脱稿《だつかう》し、其《そ》の下册《げさつ》も既《すで》に半《なかば》を過《す》ぎて居《ゐ》る。併《しか》し猶《な》ほ少《すこ》しく實地《じつち》に就《つい》て蹈査《たうさ》したき希望《きばう》あるが故《ゆゑ》に、姑《しば》らく修史《しうし》の筆《ふで》を投《とう》じて、朝鮮方面《てうせんはうめん》から九|州《しう》にかけて、旅行《りよかう》する積《つも》りだ。然《しか》も今《いま》や丙篇《へいへん》の印刷《いんさつ》も漸《やうや》く進捗《しんちよく》し、或《あるひ》は予《よ》が旅行中《りよかうちゆう》刊行《かんかう》を見《み》るであらうと思《おも》ふが故《ゆゑ》に、聊《いさゝ》か一|言《げん》するの必要《ひつえう》を感《かん》ずる。
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豐臣氏《とよとみし》の國内的政務《こくないてきせいむ》は、本篇《ほんぺん》に於《おい》て、殆《ほとん》ど全《まつた》く落著《らくちやく》すと云《い》ふも可《か》なりだ。其《そ》の本幹的《ほんかんてき》の大仕事《おほしごと》は、固《もと》より北條氏退治《ほうでうしたいぢ》だ。此擧《このきよ》よりして以來《いらい》、秀吉《ひでよし》の政令《せいれい》は、津輕《つがる》の端《はし》より薩摩《さつま》の端迄《はてまで》、全《まつた》く行《ゆ》き屆《とゞ》くことゝなつた。
若《も》し日本《にほん》に文字通《もじどほ》りの統《とう》一なるものが、事實《じじつ》の上《うへ》に行《おこな》はれたる時代《じだい》を求《もと》めば、秀吉以前《ひでよしいぜん》に於《おい》て、果《はた》して秀吉《ひでよし》の如《ごと》く、徹底的《てつていてき》に、透貫的《とうくわんてき》に、之《これ》を實行《じつかう》し得《え》たる者《もの》が有《あ》つたであらう乎《か》。信長《のぶなが》は勢力《せいりよく》の權化《ごんげ》だ。然《しか》もその勢力《せいりよく》は、僅《わづ》かに京都《きやうと》を中心《ちゆうしん》として、東海《とうかい》、東山《とうさん》及《およ》び山陽《さんやう》、山陰《さんいん》の一|部《ぶ》に行《おこな》はれたに過《す》ぎなかつた。足利尊氏《あしかゞたかうぢ》の如《ごと》きも、隨處《ずゐしよ》に南朝《なんてう》の勢力《せいりよく》と對抗《たいかう》して、遂《つひ》に統《とう》一の目的《もくてき》を達《たつ》し得《え》なかつた。頼朝《よりとも》に至《いた》りては、身《み》は鎌倉《かまくら》に在《あ》りて、其《そ》の威風《ゐふう》は奧州《おうしう》より九|州《しう》に及《およ》んだが、然《しか》も未《いま》だ全《まつた》く平家《へいけ》の餘黨《よたう》は絶《た》たず、且《か》つ宮家《みやけ》社寺《しやじ》の勢力《せいりよく》も錯綜《さくそう》し、爲《た》めに隅々隈々迄《すみ/″\くま/″\まで》、宛《あだか》も髮毛《はつまう》の一|絲毎《しごと》に、其《そ》の血管《けつくわん》が貫通《くわんつう》する如《ごと》く、貫通《くわんつう》するに至《いた》らなかつた。乃《すなは》ち王朝《わうてう》の盛時《せいじ》と雖《いへど》も、尚《な》ほ王化《わうくわ》の未《いま》だ及《およ》ばず、王澤《わうたく》の未《いま》だ普《あま》ねからず、而《しか》して王權《わうけん》の未《いま》だ及《およ》ばざる地方《ちはう》の存在《そんざい》したことは、疑《うたがひ》を容《い》れぬ。
果《はた》して然《しか》らば豐臣氏《とよとみし》の天下《てんか》は、絶後《ぜつご》にあらざるも、空前《くうぜん》の統《とう》一|期《き》と云《い》はねばならぬ。即《すなは》ち日本《にほん》の中央集權《ちゆうあうしふけん》は、豐臣氏《とよとみし》に至《いた》りて、名實《めいじつ》兩《ふたつ》ながら實行《じつかう》せられた。此《こ》の一|點《てん》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》よりも、尊氏《たかうぢ》よりも、否《い》な頼朝《よりとも》よりも、成功者《せいこうしや》と云《い》はねばならぬ。家康《いへやす》に至《いた》りては、更《さ》らに一|層《そう》を進《すゝ》みたるの看《かん》あるも、彼《かれ》は秀吉《ひでよし》を蹈段《ふみだん》として、此《こゝ》に達《たつ》したるものだ。即《すなは》ち家康《いへやす》の統《とう》一は、秀吉《ひでよし》の統《とう》一を相續《さうぞく》して、更《さ》らに之《これ》に加工《かこう》したに止《とゞ》まる。云《い》はゞ家康《いへやす》の仕事《しごと》は、秀吉《ひでよし》の後《のち》を承《う》けた丈《だけ》に、比較的《ひかくてき》樂《らく》であつた。
人《ひと》或《あるひ》は秀吉《ひでよし》を目《もく》して、列侯會盟中《れつこうくわいめいちゆう》の首長《しゆちやう》と云《い》ひ、齊桓晉文《せいくわんしんぶん》を以《もつ》て、之《これ》に擬《ぎ》する者《もの》がある。併《しか》し是《これ》は秀吉《ひでよし》の力《ちから》を過少視《くわせうし》したものだ。當時《たうじ》の難物《なんぶつ》は、其《そ》の實力《じつりよく》に於《おい》ても、其《そ》の聲望《せいばう》に於《おい》ても、其《そ》の閥閲《ばつえつ》に於《おい》ても、徳川家康《とくがはいへやす》に過《す》ぐるものはなかつた。然《しか》るに秀吉《ひでよし》は、其《そ》の家康《いへやす》さへも移封《いほう》せしめたではない乎《か》。家康《いへやす》既《すで》に然《しか》り、況《いはん》や其他《そのた》をや。彼等《かれら》は悉《こと/″\》く秀吉《ひでよし》に臣事《しんじ》した。上杉景勝《うへすぎかげかつ》にせよ、毛利輝元《まうりてるもと》にせよ、島津義久《しまづよしひさ》にせよ。否《い》な秀吉《ひでよし》の舊主《きうしゆ》信長《のぶなが》の兒孫《じそん》の何《いづ》れも、皆《みな》然《しか》りであつた。
秀吉《ひでよし》が文祿《ぶんろく》三|年《ねん》四|月《ぐわつ》十二|日附《にちづけ》にて、近衞信輔流讒《このゑのぶすけりうざん》の申立書中《まをしたてしよちゆう》の一|節《せつ》に曰《いは》く、
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一 關白職之儀《くわんぱくしよくのぎ》、|雖[#下]被[#二]仰出[#一]候[#上]《おほせいだされさふらふといへども》。達而斟酌申上候處《たつてしんしやくまをしあげさふらふところ》、近衞《このゑ》二|條《でう》關白職廻持之儀《くわんぱくしよくまはりもちのぎ》に付而《ついて》、互申事《たがひにまをすこと》|依[#レ]有[#レ]之《これあるによつて》、右兩人衆《みぎりやうにんしゆう》双方《さうはう》關白職之儀《くわんぱくしよくのぎ》|尤之由被[#レ]申《もつとものよしまをさるゝ》に付而《ついて》、上儀《じやうぎ》を申御請申上候事《まをしおんうけまをしあげさふらふこと》。
一 右《みぎ》の兩人《りやうにん》によらず、九|條《でう》一|條《でう》鷹司《たかつかさ》兩《りやう》三|人之衆《にんのしゆう》も關白職《くわんぱくしよく》もたるゝ由《よし》承及候間《うけたまはりおよびさふらふあひだ》、天下之儀《てんかのぎ》互《たがひ》に五|人《にん》として廻持候段者《まはりもちさふらふだんは》、おかしき次第《しだい》と存候《ぞんじさふらふ》。其仔細《そのしさい》は右之《みぎの》五|人衆《にんしゆう》御劍預《ぎよけんあづか》り|有[#レ]之候《これありさふらふ》は、天下之儀《てんかのぎ》きりしたがふべき爲《ため》のよし聞及候《きゝおよびさふらふ》。其下之儀者《そのしものぎは》|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、一|在所之儀《ざいしよのぎ》もきりしたがへられず候間《さふらふあひだ》自然《しぜん》秀吉《ひでよし》御劍預申而《ぎよけんあづかりまをして》、國之《くにの》一ヶ|國《こく》もきりしたがへば、右之《みぎの》五|人之關白職《にんのくわんぱくしよく》には少《すこし》まし候《さふら》はん哉《や》と存候事《ぞんじさふらふこと》。〔駒井日記〕[#「〔駒井日記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは頗《すこぶ》る露骨《ろこつ》の文句《もんく》であるが、如何《いか》に秀吉《ひでよし》が虚名《きよめい》でなく、實力《じつりよく》で天下《てんか》を治《をさ》めたるかゞ判知《わか》る。彼《かれ》の立《た》つ所《ところ》も、此《これ》に在《あ》り。彼《かれ》の誇《ほこ》る所《ところ》も、此《こゝ》に存《そん》した。
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秀吉《ひでよし》の丈量《じやうりやう》の繩《なは》は、津輕《つがる》、南部等《なんぶとう》の所領《しよりやう》にも、大隅《おほすみ》、薩摩《さつま》の片隅《かたすみ》にも及《およ》んだ。
如何《いか》なる神社佛閣《じんじやぶつかく》でも、殆《ほとん》ど見逃《みのが》す所《ところ》はなかつた。
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秀吉《ひでよし》諸國《しよこく》の田畑《でんぱた》悉《こと/″\》く檢地《けんち》し、餘分《よぶん》の賦税《ふぜい》を收公《しうこう》せらる可《べ》き旨《むね》命《めい》あり。……|先達《せんだつ》て兩太神宮御神領《りやうだいじんぐごしんりやう》悉《こと/″\》く勘落《かんらく》する所《ところ》に、剩《あまつさ》へ相殘《あひのこ》る宮川《みやがは》の内《うち》四十|箇村《かそん》をも檢地《けんち》を遂《と》げんとす。然《しか》るに西洞院《にしのどうゐん》の尼《に》孝藏主《かうざうす》が膝《ひざ》を枕《まくら》とし、秀吉《ひでよし》睡眠《すゐみん》せらる所《ところ》、神慮《しんりよ》殊《こと》に憤《いきどほ》らせ玉《たま》ひて、檢地《けんち》すべくんば、命《いのち》を斷《た》たんとの靈夢《れいむ》を蒙《かうむ》り、覺《さめ》て後《のち》偏身《へんしん》汗《あせ》に成《なり》て、大《おほい》に驚《おどろ》き、急《きふ》に羽書《うしよ》を勢州《せいしう》に飛《とば》せ、此事《このこと》を止《とゞめ》らる。爰《こゝ》に於《おい》て、神官等《しんくわんら》、四|海《かい》一|統《とう》の檢地《けんち》に、御神領《ごしんりやう》のみ、其沙汰《そのさた》なき謝禮《しやれい》として、黄金《わうごん》百|枚《まい》を献《けん》ずる所《ところ》、是《これ》をも速《すみやか》に返《かへ》さる。是《これ》を以《もつ》て後世《こうせい》に至《いたり》て、彼《かの》四十|箇村《かそん》は穀高《こくだか》の沙汰《さた》なしと云々《うんぬん》。蓋《けだ》し本朝《ほんてう》諸國《しよこく》一|統《とう》に檢地《けんち》と云事《いふこと》は、往昔《わうせき》より曾《かつ》てなし。文祿《ぶんろく》四|年《ねん》の檢地高《けんちだか》と末代《まつだい》に稱《しよう》するは、此時《このとき》改《あらた》め出《いだ》す所《ところ》をさして云《い》ふなり。〔武徳編年集成〕[#「〔武徳編年集成〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》の所謂《いはゆ》る、靈夢《れいむ》なるものは、信憑《しんぴよう》す可《べ》き乎《か》否乎《いなか》は、姑《しば》らく措《お》き。其手《そのて》が伊勢神宮《いせしんぐう》の領地迄《りやうちまで》及《およ》びたるを見《み》れば、如何《いか》に秀吉《ひでよし》の手《て》が屆《とゞ》かぬ隈《くま》なかつたことが、想像《さうざう》せらるゝ。
吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》の中央集權《ちゅうあうしふけん》が、日本《にほん》を利《り》したる乎《か》、害《がい》したる乎《か》を論究《ろんきう》せんとするものではない。但《た》だ眞正《しんせい》の中央集權制《ちゆうあうしふけんせい》は、秀吉《ひでよし》に至《いた》りて大成《たいせい》したと云《い》ふ事實《じじつ》を、指點《してん》して置《お》く迄《まで》の事《こと》だ。要《えう》するに徳川氏《とくがはし》は、只《た》だ秀吉《ひでよし》の政策《せいさく》を踏襲《たうしふ》して、之《これ》を周到《しうたう》ならしめたに過《す》ぎぬ。
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秀吉《ひでよし》は自《みづ》から動《うご》くと與《とも》に、他《た》を動《うご》かすに妙術《めうじゆつ》を得《え》て居《ゐ》る。別言《べつげん》すれば、彼《かれ》は他人《たにん》の力《ちから》を利用《りよう》するに於《おい》て、殆《ほとん》ど遺憾《ゐかん》なきに庶幾《ちか》かつた。手近《てぢか》き例《れい》は、九|州征伐《しうせいばつ》には、中國《ちゆうごく》の大大名《だい/\みやう》毛利《まうり》一|家《け》の力《ちから》を、極端《きよくたん》に利用《りよう》した。關東征伐《くわんとうせいばつ》には、東海道《とうかいだう》の大大名《だい/\みやう》、徳川家康《とくがはいへやす》、織田信雄等《おだのぶをら》の力《ちから》を、十二|分《ぶん》に利用《りよう》した。彼《かれ》が明國册封使《みんこくさくほうし》の接待費《せつたいひ》は、巨萬《きよまん》を數《かぞ》へた。然《しか》も其《そ》の費用《ひよう》は、悉《こと/″\》く沿道《えんだう》の諸大名《しよだいみやう》に課《くわ》して、彼《かれ》の手《て》より出《い》でたるものは幾許《いくばく》もなかつたとは、當時《たうじ》の耶蘇會宣教師側《やそくわいせんけうしがは》の所説《しよせつ》だ。
彼《かれ》は一|種《しゆ》の土木狂《どぼくきやう》であつた。彼《かれ》が大阪《おほさか》や、聚樂《じゆらく》や、伏見《ふしみ》や、隨時隨所《ずゐじずゐしよ》の築造經營《ちくぞうけいえい》は、殆《ほとん》ど天下《てんか》の民力《みんりよく》と財力《ざいりよく》とを絞《しぼ》り盡《つく》さんとした。然《しか》も彼《かれ》は自《みづ》から天下第《てんかだい》一の富豪《ふがう》であつた。彼《かれ》は無法《むはふ》なる浪費者《ろうひしや》の如《ごと》くして、却《かへ》つて偉大《ゐだい》なる蓄財家《ちくざいか》であつた。天下《てんか》は彼《かれ》の爲《た》めに、或《あるひ》は困窮《こんきゆう》したであらう、然《しか》も彼自身《かれじしん》は、毫《がう》も困窮《こんきゆう》する所《ところ》はなかつた。而《しか》して彼《かれ》は、他人《たにん》の財嚢《ざいのう》と勞力《らうりよく》とを傾倒《けいたう》せしむるに就《つい》て、實《じつ》に人間業《にんげんわざ》とは思《おも》はれぬ程《ほど》の手腕《しゆわん》を有《いう》した。
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一|御普請場《ごふしんば》へ日々《ひゞ》|被[#レ]爲[#レ]成候《ならせられさふらふ》。十|月始《ぐわつはじめ》定時分檢《ていじぶんけん》の大名衆《だいみやうしゆう》へ風《かぜ》を防《ふせ》ぎ候《さふら》への由《よし》にて、長持《ながもち》に紙絹《かみぎぬ》を御入《おんいれ》、町場《ちやうば》を御廻《おんまは》り候《さふらう》て、移《うつり》に下《くだ》され候《さふらふ》。正宗《まさむね》は物數寄《ものずき》を仕候《つかまつりさふら》へども、紺地《こんぢ》の金襴袖《きんらんそで》は染物《そめもの》に摺箔《すりはく》の入候《いりさふらふ》を御付《おんつけ》、すそは青地《あをぢ》の緞子《どんす》色々《いろ/\》をとり合候《あはせさふらふ》呉服《ごふく》を下《くだ》され候《さふらふ》。其砌《そのみぎり》正宗《まさむね》大坂《おほさか》御上下《ごじやうげ》の御座船《ござふね》を|御進上被[#レ]成《ごしんじやうなされ》御感《ぎよかん》の由《よし》に候而《さふらうて》、光忠《みつたゞ》の御腰物《おんこしもの》を|被[#レ]下候《くだされさふらふ》。其明《そのあく》る日《ひ》御普請場《ごふしんば》へ、正宗《まさむね》彼刀《かのたう》を御差《おんさし》御目見候處《おめみえさふらふところ》、昨日《さくじつ》正宗《まさむね》に刀《かたな》を盜《ぬすま》れ候間《さふらふあひだ》、取返《とりか》へし候《さふら》へと御錠《ごぢやう》に成《な》る。御小姓衆《おこしやうしゆう》四五|人《にん》取《とり》かゝり候《さふらふ》を、正宗《まさむね》打拂《うちはら》ひ半町程《はんちやうほど》御迯候《おにげさふら》へば、盜賊人《どろばうにん》に候《さふら》へ共《ども》、御免《ごめん》なされ候間《さふらふあひだ》、參候《まゐりさふら》へと御意《ぎよい》に成候《なりさふらふ》。或時《あるとき》御所柿《ごしよがき》を|御入被[#レ]成《おいれなされ》、諸大名《しよだいみやう》へ|被[#レ]下候《くだされさふらふ》。正宗町場《まさむねちやうば》へ|被[#レ]爲[#レ]成《ならせられ》、正宗《まさむね》は大物《おほもの》ずきにて候間《さふらふあひだ》、大《おほ》き成《なる》が望《のぞ》みに候《さふら》はん由《よし》御意《ぎよい》にて、折《をり》の中《なか》を御取《おんとり》かへし候《さふらう》て、是《これ》より大《おほ》きなるはなきとて|被[#レ]下候《くだされさふらふ》。諸人《しよじん》にすぐれたる御意共《ぎよいども》度々候《たび/\さふらふ》を、何《いづ》れも御覽候而《ごらんさふらうて》、正宗《まさむね》は遠國人《ゑんごくじん》にて、一|兩年《りやうねん》の御奉公《ごほうこう》に候《さふらふ》。|如[#レ]此《かくのごとく》、御前《ごぜん》よきこと冥加《めうが》の仁《じん》にて候《さふらふ》と、御取沙汰候《おんとりさたさふらふ》なり。〔伊達日記〕[#「〔伊達日記〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ伊達政宗《だてまさむね》の重臣《ぢゆうしん》伊達成實《だてなりざね》の記《き》する所《ところ》、如何《いか》にも秀吉《ひでよし》が、他《た》をして自《みづ》から勇《いさ》み進《すゝ》んで其力《そのちから》を竭《つく》さしむる作用《さよう》が、あり/\と判知《わか》る樣《やう》だ。但《た》だ善《よ》く游《およ》ぐ者《もの》は水《みづ》に溺《おぼ》れ、善《よ》く戰《たゝか》ふ者《もの》は、劍《けん》に死《し》す。秀吉《ひでよし》も餘《あま》りに他《た》の力《ちから》を利用《りよう》する長技《ちやうぎ》の爲《た》めに、遂《つ》ひに群雄《ぐんゆう》を驅《か》りて外征《ぐわいせい》に從事《じゆうじ》せしめ。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》の長技《ちやうぎ》を以《もつ》てするも、遂《つ》ひに如何《いかん》ともする能《あた》はざるの不始末《ふしまつ》に至《いた》らしめたのは、畢竟《ひつきやう》騎虎《きこ》の勢《いきほひ》、自《みづ》から止《とゞ》まる所《ところ》を知《し》らなかつたからと云《い》ふ可《べ》きであらう。
著者《ちよしや》は必《かなら》ずしも秀吉《ひでよし》の外征《ぐわいせい》の是非《ぜひ》を、今茲《いまこゝ》に批判《ひはん》せんとする者《もの》ではない。但《た》だ如何《いか》なる長技《ちやうぎ》と雖《いへど》も、それ/″\|制限《せいげん》ありて、決《けつ》して無盡藏《むじんざう》でないと云《い》ふ事實《じじつ》を、外征《ぐわいせい》の一|擧《きよ》に於《おい》て認《みと》めざるを得《え》ないと云《い》ふのだ。若《も》し秀吉《ひでよし》に一の缺點《けつてん》ありとせば、そは金力《きんりよく》若《も》しくは人力《じんりよく》を愛惜《あいせき》するを知《し》らなかつた事《こと》だ。吾人《ごじん》は全《まつた》く知《し》らなかつたとは云《い》はぬ、然《しか》も之《これ》を使用《しよう》する割合《わりあひ》に、それ丈《だけ》之《これ》を愛惜《あいせき》する所以《ゆゑん》を解《かい》せなかつたと云《い》ふのだ。即《すなは》ち彼《かれ》が餘《あま》りに他《た》から絞《しぼ》り取《と》りたる結果《けつくわ》は、秀吉自身《ひでよしじしん》、却《かへ》つて怨嗟《ゑんさ》の標的《へうてき》となり、天下《てんか》を擧《あ》げて、豐臣氏《とよとみし》を呪《のろ》ふに至《いた》らざるを得《え》なかつたのだ。然《しか》も是亦《これま》た過《あやまち》を見《み》て仁《じん》を知《し》るの類歟《るゐか》。
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大正十年四月十一日午後十時逗子觀瀾亭に於て、時に西南風激しく、老松吼ゆる音、遙かに相模洋の濤聲と和し、宛も千軍萬馬馳驟の状あり。窓外の大嶋櫻、七分の開花、蚤くも散ぜんとす。
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[#地から1字上げ]蘇峰學人
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