第九章 小田原城攻守の終局
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第九章 小田原城攻守の終局[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【五〇】松田憲秀の内應[#中見出し終わり]

話頭《わとう》は再《ふたゝ》び小田原城《をだはらじやう》の攻守《こうしゆ》に返《かへ》る。如何《いか》なる場合《ばあひ》も、禍《わざはひ》は外《ほか》よりせず、内《うち》より生《しやう》ずるものだ。そは松田憲秀《まつだのりひで》の内通《ないつう》である。松田憲秀《まつだのりひで》は、北條家《ほうでうけ》第《だい》一の出頭人《しゆつとうにん》であつた。其《そ》の祖先《そせん》松田左衞門尉頼重《まつださゑもんのじやうよりしげ》は、北條家《ほうでうけ》の始祖《しそ》早雲《さううん》に忠功《ちゆうこう》を建《た》て、爾來《じらい》君臣《くんしん》相依《あひよ》りて、今日《こんにち》に至《いた》り、五千|騎《き》の將《しやう》として、威權《ゐけん》を關《くわん》八|州《しう》に振《ふる》うた。八|州《しう》の士民《しみん》、押並《おしなべ》て尾張《をはり》〔松田尾張守憲秀〕[#「〔松田尾張守憲秀〕」は1段階小さな文字]を怨《うら》み憎《にく》むと雖《いへど》も、氏政父子《うぢまさふし》尾張《をはり》が邪佞《じやねい》に迷《まよ》ひ、無《む》二の良臣《りやうしん》と思《おも》ひ、軍國《ぐんこく》の大事《だいじ》、たゞ尾張《をはり》一|人《にん》に委任《ゐにん》有《あり》しかば、人皆《ひとみ》な乳虎《にふこ》の如《ごと》く忌恐《いみおそ》れざる者《もの》なし。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]憲秀《のりひで》は、果《はた》して斯《か》く迄《まで》の惡黨《あくたう》であつた乎《か》、否乎《いなか》は姑《しば》らく措《お》き、彼《かれ》が北條家《ほうでうけ》の執權《しつけん》であつた事《こと》は、確實《かくじつ》だ。
彼《かれ》には三|人《にん》の男子《だんし》があつた。長《ちやう》は笠原新《かさはらしん》六|郎政堯《らうまさたか》と稱《しよう》し、伊豆《いづ》戸倉城《とくらじやう》に在《あ》りし際《さい》、武田勝頼《たけだかつより》に降《くだ》り、我《わ》が城《しろ》に甲州勢《かふしうぜい》を引《ひ》き入《い》れたが、勝頼《かつより》滅亡後《めつばうご》、其勢《そのせい》を討取《うちと》り、北條家《ほうでうけ》に歸參《きさん》したが、父《ちゝ》の忠孝《ちゆうこう》に免《めん》じて、一|命《めい》を助《たす》けられ、父《ちゝ》の知行所《ちぎやうしよ》に流浪《るらう》して居《ゐ》た。〔小田原日記〕[#「〔小田原日記〕」は1段階小さな文字]二|男《なん》佐間助直憲《さまのすけなほのり》は、容貌《ようぼう》秀麗《しうれい》、性質《せいしつ》温厚《をんこう》、幼《えう》より氏直《うぢなほ》の側《かたはら》に勤仕《きんし》した。三|男《なん》彈《だん》三|郎秀也《らうひでなり》は、父兄《ふけい》に似《に》たる奸曲者《かんきよくしや》であつた。
抑《そもそ》も北條累代《ほうでうるゐだい》の老臣《らうしん》松田《まつだ》は、何時頃《いつごろ》より敵方《てきがた》に内通《ないつう》した乎《か》。當初《たうしよ》攻勢的防禦策《こうせいてきばうぎよさく》に反對《はんたい》して、籠城《ろうじやう》一|點張《てんば》りを勸説《くわんぜい》したのも、將《は》た秀吉《ひでよし》に石垣山《いしがきやま》の地利《ちり》を教《をし》へたのも、皆《み》な彼《かれ》が内通《ないつう》の結果《けつくわ》だと云《い》へば、彼《かれ》は手切《てぎ》れ當時《たうじ》より、既《すで》に其心《そのこゝろ》は秀吉《ひでよし》に向《むか》うたものと云《い》はねばならぬ。果《はた》して然《しか》らば、彼《かれ》は何故《なにゆゑ》に一|歩《ぽ》を進《すゝ》めて、手切以前《てぎれいぜん》に、氏政《うぢまさ》氏直《うぢなほ》父子《ふし》の上洛《じやうらく》を主張《しゆちやう》せざりし乎《か》。そは何《いづ》れにせよ、彼《かれ》が内通《ないつう》の愈《いよい》よ具體的《ぐたいてき》となつたのは、八|州《しう》の諸城《しよじやう》も、木葉《このは》の風《かぜ》に飜《ひるがへ》るが如《ごと》く、漸々《ぜん/\》に陷落《かんらく》し、然《しか》も六|月《ぐわつ》五|日《か》の夜《よ》、澁取口《しぶとりぐち》を守《まも》れる和田左衞門《わださゑもん》は、部兵《ぶへい》百五十|人《にん》を率《ひき》ゐ、其《そ》の廠舍《しやうしや》を火《や》き、城《しろ》を出《い》でゝ徳川氏《とくがはし》の營《えい》に投降《とうかう》し、城中《じやうちゆう》の人氣《にんき》も、稍《や》や挫折《ざせつ》の色《いろ》が見《み》え來《きた》つた際《さい》であつた。
惟《おも》ふに松田《まつだ》と、堀秀政《ほりひでまさ》との交渉《こうせふ》は、久《ひさ》しき以前《いぜん》より、密《ひそ》かに開始《かいし》せられたのでらう。秀吉《ひでよし》が秀政《ひでまさ》の子《こ》秀治《ひではる》―秀政《ひでまさ》は五|月《ぐわつ》二十七|日《にち》、石垣山麓《いしがきさんろく》の陣《ぢん》に病歿《びやうぼつ》した―に命《めい》じ、松田《まつだ》に答《こた》へしめたのは、左《さ》の書簡《しよかん》である。
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芳翰《はうかん》並《ならびに》御使者《おししや》口上之趣《こうじやうのおもむき》、則《すなはち》殿下《でんか》〔秀吉〕[#「〔秀吉〕」は1段階小さな文字]へ|令[#二]披露[#一]處《ひろうせしめたるところ》、尤《もつとも》忠節之段《ちゆうせつのだん》、悦思召候《よろこびおぼしめしさふらふ》。然《しかれ》ば伊豆《いづ》、相模《さがみ》、永代《えいたい》|可[#レ]被[#二]扶助[#一]旨候《ふじよせらるべきむねにさふらふ》。彌《いよ/\》|被[#レ]極[#二]御分別[#一]《ごふんべつをきはめられ》重而《かさねて》誓紙等《せいしとう》の儀《ぎ》、委《くは》しく沙汰候《さたさふらう》て、頓而《やがて》|可[#レ]被[#二]仰越[#一]候《おほせこさるべくさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。〔古今消息集〕[#「〔古今消息集〕」は1段階小さな文字]
  六月八日
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同夜《どうや》憲秀《のりひで》は、其《そ》の三|子《し》を召《め》して、其《そ》の密謀《みつぼう》を語《かた》つた。二|子《し》直憲《なほのり》は苦諫《くかん》したが、憲秀《のりひで》は聞入《きゝい》れなかつた。十|日《か》憲秀《のりひで》は、安國寺惠瓊《あんこくじゑけい》を介《かい》して、相模《さがみ》一|國《こく》を得《え》ば、長子《ちやうし》政堯《まさたか》を上京《じやうきやう》せしめんと云《い》ひ、十六|日《にち》の夜《よ》、火《ひ》を市街《しがい》に放《はな》ち、堀《ほり》、細川《ほそかは》、池田《いけだ》の勢《せい》を、城内《じやうない》に引入《ひきい》れんと約束《やくそく》した。然《しか》るに十六|日《にち》の朝《あさ》、堀《ほり》、細川《ほそかは》、池田等《いけだら》は、兵《へい》を城西《じやうせい》に派《は》したが、松田《まつだ》の旗幟《きし》既《すで》に撤去《てつきよ》せられたるを見《み》て、其《そ》の内應《ないおう》の策《さく》破《やぶ》れたるを知《し》り、引《ひ》き返《かへ》した。
憲秀《のりひで》は十四|日《か》の夜《よ》、愈《いよい》よ内應《ないおう》の策《さく》を實行《じつかう》す可《べ》く、三|兒《じ》及《およ》び、弟《おとうと》康光《やすみつ》、女婿《ぢよせい》内藤左近等《ないとうさこんら》を召《め》して、之《これ》を告《つ》げた。二|男《なん》直憲《なほのり》は、進退《しんたい》維《こ》れ谷《きは》まり、煩悶《はんもん》の餘《よ》、稍《やうや》く志《こゝろざし》しを決《けつ》し、先《ま》づ氏直《うぢなほ》に哀訴《あひそ》し、豫《あらか》じめ其《そ》の父《ちゝ》の一|命《めい》を請《こ》ひ得《え》て、而《しか》して後《のち》其《そ》の陰謀《いんぼう》を漏《も》らした。氏直父子《うぢなほふし》の驚愕《きやうがく》知《し》る可《べ》しであつた。彼等《かれら》は事《こと》に託《たく》し、憲秀《のりひで》を召《め》し、之《これ》を鞠問《きくもん》した。憲秀《のりひで》の老獪《らうくわい》、固《もと》より承服《しようふく》す可《べ》き樣《やう》もなく、往年《わうねん》武田信玄《たけだしんげん》亂入《らんにふ》の際《さい》にも、我等《われら》敵方《てきがた》へ一|味《み》の由《よし》、風説《ふうせつ》にて、人質《ひとじち》を取《と》り置《おか》れぬ。此度《このたび》も亦《ま》た讒人《ざんにん》の沙汰《さた》ならんと辯疏《べんそ》したが、其《そ》の訴人《そにん》が、骨肉《こつにく》の者《もの》であつた事《こと》を知《し》るに及《およ》び、今《いま》は返《かへ》す言葉《ことば》もなかつた。
此《こゝ》に於《おい》て氏直《うぢなほ》は政堯《まさたか》を誅《ちゆう》し、憲秀《のりひで》、秀也《ひでなり》を拘禁《かうきん》し、布施善《ふせぜん》四|郎《らう》、大藤左衞門尉等《おほとうさゑもんのじやうら》をして、兵《へい》七百|餘人《よにん》を率《ひき》ゐ、二|重戸張口《ぢゆうとばりぐち》に派《は》し、之《これ》に代《かは》らしめ、守備《しゆび》警戒《けいかい》を愈《いよい》よ嚴密《げんみつ》にした。
抑《そもそ》も松田《まつだ》の陰謀《いんぼう》に就《つい》ては、其《そ》の長男《ちやうなん》新《しん》六|郎政堯《らうまさたか》が、首惡《しゆあく》であつたに、相違《さうゐ》あるまい。
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六|月《ぐわつ》十六|日《にち》城中《じやうちゆう》に松田《まつだ》〔松田政堯〕[#「〔松田政堯〕」は1段階小さな文字]調儀候《てうぎさふら》へ共《ども》、弟《おとうと》〔松田直憲〕[#「〔松田直憲〕」は1段階小さな文字]返忠候《かへりちうさふらふう》て、ちかひ候《さふらふ》。松田《まつだ》成敗《せいばい》にあひ候由候《さふらふよしにさふらふ》。
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の家忠日記《いへたゞにつき》にあれば、此《こ》れで長男《ちやうなん》が、其《そ》の父《ちゝ》憲秀《のりひで》を誘拐《いうかい》したことが分明《ぶんみやう》だ。
此《かく》の如《ごと》く松田《まつだ》の陰謀《いんぼう》は、未熟《みじゆく》の際《さい》に破《やぶ》れ、之《こ》れが爲《た》めに、小田原籠城《をだはらろうじやう》の破綻《はたん》を免《まぬか》れたが、其《そ》の精神的打撃《せいしんてきだげき》の多大《ただい》であつた※[#こと、249-5]は、到底《たうてい》測量《そくりやう》の及《およ》ぶ限《かぎ》りでなかつた。斯《かゝ》る籠城《ろうじやう》に際《さい》して、恃《たの》む可《べ》きは、只《た》だ人心《じんしん》の一|和《わ》である。然《しか》るに北條家《ほうでうけ》の運命《うんめい》を、双肩《さうけん》に擔《にな》うたる松田憲秀《まつだのりひで》が、敵方《てきがた》に内通《ないつう》するに至《いた》りては、萬事《ばんじ》休《きう》すと云《い》はねばならぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【五一】小田原城士氣の沮喪[#中見出し終わり]

北條側《ほうでうがは》の豫定《よてい》の計畫《けいくわく》は、根柢《こんてい》より破壞《はくわい》し了《をは》つた。上方勢《かみがたぜい》は、兵粮《ひやうらう》に窮《きゆう》せぬのみか、却《かへ》つて城中《じやうちゆう》が追々《おひ/\》と減少《げんせう》して來《き》た。上方勢《かみがたぜい》は連日《れんじつ》の降雨《かうう》にも屈託《くつたく》せず、一|生涯《しやうがい》を小田原陣營《をだはらぢんえい》に送《おく》つても、苦《くる》しからずと云《い》ふ意氣込《いきごみ》〔參照 本篇四一、寄手彌よ振ふ〕[#「〔參照 本篇四一、寄手彌よ振ふ〕」は1段階小さな文字]であつたに拘《かゝは》らず、北條方《ほうでうがた》には城中《じやうちゆう》より脱奔者《だつぽんしや》や、出降者《しゆつかうしや》を出《い》だし、特《とく》に松田父子《まつだふし》の事件《じけん》さへも出來《しゆつたい》した。されば今《いま》や小田原城《をだはらじやう》は、形式的《けいしきてき》に踏《ふ》み怺《こら》へたと雖《いへど》も、精神的《せいしんてき》には業《すで》に既《すで》に陷落《かんらく》したと云《い》うても、差支《さしつかへ》あるまい。
形勢《けいせい》を察《さつ》するに明敏《めいびん》に、機會《きくわい》を捉《とら》ふるに鋭往《えいわう》なる秀吉《ひでよし》は、直《たゞ》ちに得意《とくい》の調略《てうりやく》を用《もち》ひ始《はじ》めた。そは六|月《ぐわつ》二十|日《か》の夜《よ》、其《そ》の近臣《きんしん》山中山城守長俊《やまなかやましろのかみながとし》に命《めい》じ、忍《おし》の城主《じやうしゆ》にて、當時《たうじ》小田原城《をだはらじやう》大窪口《おほくぼぐち》の守將《しゆしやう》たる成田氏長《なりたうぢなが》に、誘降《いうかう》の書《しよ》を投《とう》ぜしめた事《こと》だ。山中《やまなか》は秀吉《ひでよし》の右筆《いうひつ》にて、成田《なりた》とは、何《いづ》れも連歌《れんか》の道《みち》に於《おい》て、知音《ちいん》の間柄《あひだがら》であつた。
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|捧[#二]一封[#一]《いつぷうをさゝげて》|伸[#二]寸志[#一]了《すんしをのべをはんぬ》。仍《なほ》年々《ねん/\》|領[#二]温問[#一]事《おんもんにあづかること》甚以《はなはだもつて》恐悦《きようえつ》の至《いたり》、更以《さらにもつて》甚深候《じん/\にさふらふ》。|就[#レ]中《なかんづく》關八洲《くわんはつしう》氏政家人之城々《うぢまさけにんしろ/″\》、七八ヶ|所《しよ》或《あるひは》|致[#二]落城[#一]《らくじやういたし》或《あるひは》|成[#二]降人[#一]了《こうにんとなりをはんぬ》。然者《しかれば》其御城《そのおしろ》涸魚《こぎよ》|迫[#二]眼前[#一]候《がんぜんにせまりさふらふ》。貴翁《きおう》先祖之家業《せんぞのかげふ》絶不絶《ぜつふぜつ》、昌不昌《しやうふしやうは》|在[#二]唯今之寸思[#一]《たゞいまのすんしにあり》、秀吉《ひでよし》御前之義《ごぜんのぎは》|宜[#二]執成申[#一]之條《よろしくとりなしまをすべくのでう》、|可[#レ]被[#レ]安[#二]御心候[#一]《おこゝろやすかるべくさふらふ》。急《いそぎ》|被[#レ]變[#二]御意[#一]《ぎよいをかへらるゝは》尤候《もつともにさふらふ》。委曲《ゐきよくは》使者《ししや》|可[#レ]得[#二]芳意[#一]之條《はういをうべきのでう》、|不[#レ]遑[#二]禿毫[#一]《とくがうにいとまあらず》。恐惶謹言《きようくわうきんげん》。
  六月廿日
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之《これ》に對《たい》して成田《なりた》は、
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御内状之趣《ごないじやうのおもむき》、忝次第《かたじけなきしだい》|難[#レ]盡[#二]楮上[#一]《ちよじやうにつくしがたし》。御前之樣子《ごぜんのやうす》宜樣《よろしきやう》馮入外《たのみいるゝのほか》|無[#レ]他《たなく》、委任之儀《ゐにんのぎは》|任[#二]御使者口上[#一]之條《ごししやのこうじやうにまかすのでう》、|止[#二]管城公[#一]《くわんじやうこうをとゞむ》。恐惶謹言《きようくわうきんげん》。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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斯《か》く承諾《しようだく》の旨《むね》を答《こた》へた。其《そ》の往復《わうふく》の書簡《しよかん》は甫菴《ほあん》の修作乎《しうさくか》。將《は》た原文乎《げんぶんか》。何《いづ》れにもせよ成田《なりた》は、誘拐《いうかい》に應《おう》ずる廻答《くわいたふ》をした。
是《こ》れ正《まさ》に秀吉《ひでよし》の乘《じよう》ず可《べ》き奇貨《きくわ》である。乃《すなは》ち彼《かれ》は家康《いへやす》と相諮《あひはか》り、家康《いへやす》の手《て》より成田《なりた》の返書《へんしよ》を、竊《ひそ》かに氏直《うぢなほ》に送《おく》り、城中《じやうちゆう》の形勢《けいせい》此《かく》の通《とほ》りだ、速《すみや》かに後圖《こうと》をせよと申《まを》し向《む》けしめた。是《こ》れは實《じつ》に深甚《しん/″\》の利《き》き目《め》があつた。『かくてより、小田原城中《をだはらじやうちゆう》群疑《ぐんぎ》蜂起《ほうき》し、不和《ふわ》の岐《ちまた》と成《なつ》て、兄《あに》は弟《おとうと》を疑《うたが》ひ、弟《おとうと》は兄《あに》を間《へだ》て出《いで》けるに因《よつ》て、父子兄弟《ふしきやうだい》の間《あひだ》も睦《むつま》じからず、況《いはんや》其餘《そのよ》をや。』〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]と云《い》ふ亂脈《らんみやく》となつた。
氏直《うぢなほ》は三|囘迄《くわいまで》も使《つかひ》を遣《つか》はして、成田《なりた》を召《め》したが、彼《かれ》は虚病《きよびやう》を構《かま》へて敢《あ》へて來《こ》なかつた。而《しか》して最後《さいご》に彼《かれ》は、予《よ》が持城《もちしろ》たる忍《おし》の落城《らくじやう》、旦夕《たんせき》に逼《せま》りぬ。されば當城《たうじやう》に召連《めしつ》れ籠《こも》れる、士卒《しそつ》の父母妻子《ふぼさいし》の命《いのち》を乞《こ》はん爲《た》め、已《や》むを得《え》ず、山中《やまなか》に應答《おうたふ》したと自白《じはく》した。是《こゝ》に於《おい》て氏直《うぢなほ》は山上顯將《やまがみあきもち》に命《めい》じ、柵《さく》を成田《なりた》の營外《えいぐわい》に結《むす》び、兵《へい》を以《もつ》て、之《これ》を監視《かんし》せしめた。
家康《いへやす》は豫《かね》てより、甲州《かふしう》より金掘《かねほり》を召致《せうち》し、篠曲輪《しのくるわ》に地道《ちだう》を鑿《うが》たしめた。然《しか》るに六|月《ぐわつ》の夜《よ》、俄《にはか》に暴雨《ばうう》烈風《れつぷう》にて、塀《へい》も柵《さく》も悉《こと/″\》く崩壞《ほうくわい》した。井伊直政《ゐいなほまさ》、松平康重等《まつだひらやすしげら》之《これ》を機《き》とし、窃《ひそか》に蘆子川《あしこがは》を渉《わた》り、井伊《ゐい》の士《し》近藤季用《こんどうすゑもち》、向阪傳藏等《さきさかでんざうら》先登《せんとう》し、松平《まつだひら》の兵《へい》側《かたはら》より城壁《じやうへき》に傳《つ》き、曲輪《くるわ》に突入《とつにふ》し、火《ひ》を其《そ》の營《えい》に放《はな》つた。守將《しゆしやう》山角定勝等《やまずみさだかつら》防戰《ばうせん》甚《はなは》だ力《つと》め、城内《じやうない》警邏兵《けいらへい》小笠原長範等《をがさはらながのりら》三百|人《にん》の援助《ゑんじよ》を得《え》―城中《じやうちゆう》毎夜《まいよ》兵《へい》六百|人《にん》を正門《しやうもん》に集《あつ》め、二|隊《たい》に分《わか》ち、六|囘《くわい》の巡邏《じゆんら》をした―支持《しぢ》屈《くつ》せず。直政《なほまさ》乃《すなは》ち兵《へい》三百を後殿《しんがり》とし、城兵《じやうへい》の追躡《つゐせふ》を拒戰《きよせん》して囘《かへ》つた。徳川方《とくがはがた》の戰死《せんし》三百十|餘人《よにん》、北條方《ほうでうがた》は四百|餘人《よにん》、隨分《ずゐぶん》の激戰《げきせん》であつた。翌日《よくじつ》家康《いへやす》は首級《しゆきふ》を秀吉《ひでよし》に献《けん》じ、秀吉《ひでよし》は直政《なほまさ》、康重《やすしげ》を召《め》して、賞詞《しやうし》を與《あた》へ、季用《すゑもち》には南部黒《なんぶぐろ》と云《い》ふ名馬《めいば》に、紅梅裏《こうばいうら》の陣羽織《ぢんばおり》、傳藏《でんざう》には駿馬《しゆんめ》を賜《たま》うた。季用《すゑもち》は當時《たうじ》十七|歳《さい》の青年《せいねん》であつた。
吾人《ごじん》は此際《このさい》に於《お》ける、一の逸話《いつわ》を見逃《みのが》す譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。井伊《ゐい》は當初《たうしよ》より此川《このかは》の方面《はうめん》より攻《せ》め入《い》らんと企《くはだ》てたが、篠曲輪《しのくるわ》の堀《ほり》に橋《はし》があつた。彼《かれ》は堀水《ほりみづ》を海口《かいこう》へ切《きつ》て落《おと》し、攻戰《こうせん》の便《べん》にせんとしたが、家康《いへやす》は直政《なほまさ》を召《め》して橋乎《はしか》、橋乎《はしか》とのみ云《い》うた。井伊《ゐい》は是《こ》れ橋下《けうか》の水《みづ》の深淺《しんせん》を測《はか》る可《べ》き意味《いみ》にやと解《かい》し、杭《くひ》を橋下《けうか》に立《た》てゝ之《これ》を測量《そくりやう》し、報告《はうこく》したが、家康《いへやす》は依然《いぜん》橋乎《はしか》、橋乎《はしか》と云《い》うた。直政《なほまさ》は案《あん》じ煩《わづら》ふ四十八|日《にち》、漸《やうや》く思《おも》ひ當《あた》る※[#こと、253-8]あり、夜中《やちゆう》竊《ひそ》かに橋上《けうじやう》を歩《ほ》したるに、桁《けた》ゆき弱《よわ》くして渡《わた》るに危《あやふ》し。扨《さ》ては家康《いへやす》は、豫《あらかじ》め此事《このこと》を懸念《けねん》したのだと、直《たゞ》ちに其營《そのえい》に赴《おもむ》き、斯《か》くと家康《いへやす》に告《つ》げたれば、家康《いへやす》は始《はじ》めて破顏《はがん》一|笑《せう》したと云《い》ふ。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
如何《いか》に徳川《とくがは》の君臣《くんしん》が、研究《けんきゆう》に餘念《よねん》なかりしは、此《こ》の一|事《じ》で分明《ぶんみやう》だ。興國《こうこく》にも、亡國《ばうこく》にも、自《おのづ》から其《そ》の因由《いんゆ》がなくてはならぬ。徳川氏《とくがはし》の天下《てんか》を得《え》たのも、偶然《ぐうぜん》ではない、決《けつ》して偶然《ぐうぜん》ではない。

[#5字下げ][#中見出し]【五二】開城の期漸く熟せんとす[#中見出し終わり]

六|月《ぐわつ》廿五|日《にち》、小田原城《をだはらじやう》の西《にし》よりして、宇喜多秀家《うきたひでいへ》の兵《へい》は、坑道《かうだう》を作《つく》り、水之尾口《みづのをぐち》に逼《せま》り、其《そ》の門櫓《もんやぐら》を倒《たふ》し、攻撃《こうげき》を開始《かいし》したが、守將《しゆしやう》佐野氏忠《さのうぢたゞ》は弓銃《きゆうじゆう》にて之《これ》に當《あた》り、急《きふ》に壘《るい》を作《つく》りて、防戰《ばうせん》した爲《た》め、宇喜多《うきた》の兵《へい》は、志《こゝろざし》を得《え》ずして止《や》んだ。斯《か》くて二十六|日《にち》に至《いた》り、豫《かね》て經始《けいし》したる石垣山《いしがきやま》の陣城《ぢんじやう》が落成《らくせい》したから、秀吉《ひでよし》は麾下《きか》を率《ひき》ゐて、湯本《ゆもと》より此處《こゝ》に全《まつた》く移轉《いてん》した。
其《そ》の結構《けつこう》の壯偉《さうゐ》なる、一|時的《じてき》間《ま》に合《あは》せの普請《ふしん》とは思《おも》はれぬ程《ほど》にて、假令《たとひ》大阪《おほさか》、聚樂《じゆらく》に劣《おと》り難《がた》し〔榊原康政の加藤清正に答へたる書簡〕[#「〔榊原康政の加藤清正に答へたる書簡〕」は1段階小さな文字]との言葉《ことば》は、多少《たせう》の掛値《かけね》あるも、其《そ》の城壁《じやうへき》の堅固《けんご》にして、天守閣《てんしゆかく》の壯大《さうだい》、自《おのづ》から小田原城《をだはらじやう》を壓《あつ》するの勢《いきほひ》ありしこと、想《おも》ひ見《み》る可《べ》しだ。秀吉《ひでよし》は乃《すなは》ち同夜《どうや》十|時《じ》、總軍《そうぐん》に令《れい》し、一|齋射撃《せいしやげき》を以《もつ》て城中《じやうちゆう》を脅威《けふゐ》せしめた。家忠日記《いへたゞにつき》に、『關白樣《くわんぱくさま》石垣《いしがき》の御城《おしろ》へ御《お》うつり候《さふらふ》。諸陣《しよぢん》に亥刻《ゐのこく》に鐵砲《てつぱう》そろへ候《さふらふ》。』とあるは、此事《このこと》だ。
秀吉《ひでよし》は小田原城内《をだはらじやうない》の、軍氣《ぐんき》沮喪《そさう》しつゝあるを見《み》て、愈《いよい》よ其《そ》の慣手《くわんしゆ》の調略《てうりやく》を用《もち》ひた。既記《きき》の如《ごと》く彼《かれ》は家康《いへやす》と相諮《あひはか》りて、四|月《ぐわつ》北條氏勝《ほうでううぢかつ》を玉繩城《たまなはじやう》より招《まね》き降《くだ》した。而《しか》して同《どう》六|月《ぐわつ》七|日《か》、家康《いへやす》をして、朝比奈泰勝《あさひなやすかつ》を韮山《にらやま》に遣《つか》はし、城主《じやうしゆ》氏規《うぢのり》を諭《さと》し、速《すみやか》に開城《かいじやう》して、宗家《そうけ》の爲《た》めに講和《かうわ》を謀《はか》らしめた。
[#ここから1字下げ]
能《わざ/\》|令[#レ]啓候《けいせしめさふらふ》。仍《なほ》最前《さいぜん》も其元之儀《そのもとのぎ》、|及[#二]異見[#一]候之處《いけんにおよびさふらふのところ》、|無[#二]承引[#一]候《しよういんなくさふら》へき。此上《このうへ》は|令[#レ]任[#二]我等差圖[#一]《われらさしづににんぜしめ》、兎角《とにかく》先《まづ》|有[#二]下城[#一]《げじやうあり》、氏政父子《うぢまさふし》の儀《ぎ》、御詫言《おんわびごと》專《せん》一に候《さふらふ》。猶《なほ》朝比奈彌《あさひなや》三|郎《らう》口上相添候《こうじやうあひそへさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
  六月七日
[#地から3字上げ]家康御判
 北條美濃守殿
[#地から1字上げ]〔古文書集〕[#「〔古文書集〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
氏規《うぢのり》も遂《つひ》に此言《このげん》に從《したが》ひ、城《しろ》を致《いた》して去《さ》り、二十四|日《か》家康《いへやす》の小田原營《をだはらえい》に赴《おもむ》いた。之《こ》れが爲《た》めに、七|月《ぐわつ》三|日《か》、秀吉《ひでよし》は韮山攻圍《にらやまこうゐ》の諸隊《しよたい》を、小田原《をだはら》に引《ひ》き揚《あ》げた。
六|月《ぐわつ》廿四|日《か》に至《いた》り、秀吉《ひでよし》は黒田孝高《くろだよしたか》、瀧川雄利《たきがはかつとし》を城中《じやうちゆう》に遣《つか》はし、井細田口《ゐさいだぐち》の守將《しゆしやう》太田氏房《おほたうぢふさ》を介《かい》して、氏直父子《うぢなほふし》を諭降《ゆかう》せしめた。是《これ》より先《さ》き宇喜多秀家《うきたひでいへ》は、秀吉《ひでよし》の命《めい》を受《う》け、氏房《うぢふさ》に向《むか》つて講和《かうわ》の周旋《しうせん》を爲《な》さしめた。
[#ここから1字下げ]
幸《さいはひ》に宇喜多中納言秀家《うきたちゆうなごんひでいへ》の陣所《ぢんしよ》は、北條《ほうでう》(太田)[#「(太田)」は1段階小さな文字]十|郎氏房《らううぢふさ》が持口《もちぐち》に近《ちか》ければ、宇喜多《うきた》より使《つかひ》を立《た》てゝ氏房《うぢふさ》防禦《ばうぎよ》の戰功《せんこう》を稱美《しようび》し、その上《うへ》籠城《ろうじやう》の積欝《せきうつ》を慰《なぐさ》め給《たま》へとて、南部酒《なんぶざけ》に鮮鯛《せんだひ》そへて送《おく》りける。十|郎《らう》甚《はなは》だその情《なさけ》を悦《よろこ》び、一|兩日《りやうじつ》過《すぎ》てまた宇喜多《うきた》が陣所《ぢんしよ》へ使《つかひ》を出《いだ》し、返答《へんたふ》のしるしとて、江川酒《えがはざけ》を贈《おく》り、長陣《ながぢん》の勞苦《らうく》を問《と》ひにけり。此《これ》を双方《さうはう》交《まじは》りの始《はじめ》とし、追々《おひ/\》睦《むつま》じく申《まをし》かはしけるが、後《のち》には互《たが》ひに見參《けんざん》せんと、日《ひ》を定《さだ》め、十|郎《らう》は矢櫓《やぐら》に出迎《でむか》へ、宇喜多《うきた》は塀近《へいちか》く寄《より》て、互《たがひ》に詞《ことば》をかはし、この後《のち》は別《べつ》して双方《さうはう》和談《わだん》し、懇意《こんい》になりける。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
秀家《ひでいへ》は先《ま》づ十|郎《らう》を觀誘《くわんいう》し、彼《かれ》よりして氏政父子《うぢまさふし》に和睦《わぼく》を觀説《くわんぜい》せしめた。然《しか》も氏政《うぢまさ》は頑《ぐわん》として之《これ》を斥《しりぞ》けた。されば黒田《くろだ》、瀧川《たきがは》の使命《しめい》も、亦《ま》た何等《なんら》の即効《そくかう》なかつた。氏政《うぢまさ》は曰《いは》く、吾《わ》れ父祖《ふそ》の業《げふ》を紹《つ》いで、八|州《しう》の主《しゆ》となる。武《ぶ》を以《もつ》て之《これ》を失《うしな》ふは、遺憾《ゐかん》ない。但《た》だ戰《たゝか》はずして降《くだ》る可《べ》きでないと。然《しか》も黒田《くろだ》は家臣《かしん》井上平兵衞《ゐのうへへいべゑ》に命《めい》じ、美酒《びしゆ》二|樽《たる》、漬魴《つけをしきうを》十|尾《び》を贈《おく》らしめた。氏政《うぢまさ》は之《これ》に向《むか》つて、鉛《なまり》、火藥《くわやく》各々《おの/\》十|貫宛《くわんづゝ》を酬《むく》いた。秀吉《ひでよし》は更《さ》らに北條氏規《ほうでううぢのり》、北條氏邦《ほうでううぢくに》をして、百|方《ぱう》觀諭《くわんゆ》せしめたが、氏政《うぢまさ》は悉《こと/″\》く之《これ》を斥《しりぞ》けた。
黒田《くろだ》は其《そ》の厚意《こうい》を謝《しや》せんが爲《た》めと稱《しよう》して、刀《かたな》をも帶《たい》せず、肩衣袴《かたぎぬはかま》を著《ちやく》し、城内《じやうない》に入《い》りて、氏政父子《うぢまさふし》に面會《めんくわい》し、和議《わぎ》の事《こと》を談《だん》じたれば、氏政父子《うぢまさふし》は、之《これ》を徳《とく》とし、北條家《ほうでうけ》傳來《でんらい》の寳刀《はうたう》、日光《につくわう》一|文字《もんじ》、及《およ》び日本《にほん》の三|陣貝《ぢんがひ》の一と稱《しよう》する北條《ほうでう》の白法螺《しろほら》、並《ならび》に東鑑《あづまかがみ》一|部《ぶ》を以《もつ》てした。日光《につくわう》一|文字《もんじ》は、無銘《むめい》二|尺《しやく》二|寸《すん》四|分《ぶ》、日光權現《につくわうごんげん》にありしを、北條早雲《ほうでうさううん》申《まを》し下《さ》げて、之《これ》を所持《しよぢ》し、氏綱《うぢつな》、氏康《うぢやす》を經《へ》て、氏政《うぢまさ》に傳《つた》へたる寳刀《はうたう》だ。氏直《うぢなほ》も亦《ま》た如水《じよすゐ》に向《むか》つて、其《そ》の斡旋《あつせん》の勞《らう》に酬《むく》ゆ可《べ》く、『時鳥《ほとゝぎす》』の琵琶《びは》を貽《おく》つた。〔黒田如水傳〕[#「〔黒田如水傳〕」は1段階小さな文字]
或《あるひ》は此《こ》の贈物《おくりもの》は、氏直《うぢなほ》出城《しゆつじやう》の後《のち》の事《こと》と云《い》ふ説《せつ》もある。何《いづ》れにもせよ黒田孝高《くろだよしたか》が、小田原開城《をだはらかいじやう》に就《つい》て、斡旋《あつせん》の勞《らう》多《おほ》かりしは、確《たし》かなる事實《じじつ》だ。但《た》だ世故《せこ》に練熟《れんじゆく》せぬ氏直《うぢなほ》の心《こゝろ》、先《ま》づ動《うご》いて、此際《このさい》多少《たせう》の餘地《よち》ありしに拘《かゝは》らず、遂《つ》ひに無條件降服《むでうけんかうふく》の餘儀《よぎ》なきに至《いた》りたるぞ、笑止《せうし》なる。

[#5字下げ][#中見出し]【五三】氏直の出陣[#中見出し終わり]

所謂《いはゆ》る貧《ひん》すれば鈍《どん》するで、窮《きゆう》すれば思慮《しりよ》も、分別《ふんべつ》も出《い》で來《きた》らず、人々《ひと/″\》互《たが》ひに相疑《あひうたが》ひ、相鬩《あひせめ》ぐに至《いた》るものぢや。小田原城中《をだはらじやうちゆう》の状態《じやうたい》が、全《まつた》く此《こ》の通《とほ》りであつた。さしもの金城湯池《きんじやうたうち》も、一|人《にん》の鬪志《とうし》なきに至《いた》つては、何《なん》の役《やく》にも立《た》つものではない。氏直《うぢなほ》は形勢《けいせい》の日《ひ》に非《ひ》なるを見《み》て、織田信包《おだのぶかね》に頼《よ》り哀《あい》を講《こ》うた。六|月《ぐわつ》廿九|日《にち》、秀吉《ひでよし》麾下《きか》の士《し》、津川《つがは》三|松《まつ》、之《これ》を取次《とりつ》いだ。秀吉《ひでよし》は其《そ》の卒爾《そつじ》なるを咎《とが》めて、三|松《まつ》及《およ》び其弟《そのおとうと》謙入《けんにふ》を追《お》うた。
氏直《うぢなほ》愈《いよい》よ窮《きゆう》して、七|月《ぐわつ》五|日《か》には其《そ》の弟《おとうと》氏房《うぢふさ》を伴《ともな》ひ、城《しろ》を出《い》でゝ家康《いへやす》に就《つ》き降《かう》を乞《こ》うた。曰《いは》く、吾《われ》切腹《せつぷく》して、父《ちゝ》氏政《うぢまさ》、及《およ》び士卒《しそつ》一|同《どう》の命《いのち》に代《かは》らんと。家康《いへやす》と氏直《うぢなほ》とは、舅《しうと》と聟《むこ》の間柄《あひだがら》なれば、故《ことさ》らに嫌疑《けんぎ》を避《さ》け、羽柴雄利《はしばかつとし》に赴《おもむ》かしめた。雄利《かつとし》は黒田孝高《くろだよしたか》と與《とも》に、之《これ》を秀吉《ひでよし》に告《つ》げた。秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》と其《そ》の處分法《しよぶんはふ》を議《ぎ》し、特《とく》に氏直《うぢなほ》の死《し》を容《ゆる》し、氏政《うぢまさ》、氏照《うぢてる》、及《およ》び松田憲秀《まつだのりひで》、大道寺政繁《だいだうじまさしげ》四|人《にん》を戮《りく》し、餘《よ》は寛典《くわんてん》に從《したが》ふ※[#こと、259-6]とし、六|日《か》を以《もつ》て、開城《かいじやう》を命《めい》じ、氏直《うぢなほ》を雄利《かつとし》に陣《ぢん》に留《とゞ》めた。六|日《か》氏直《うぢなほ》に命《めい》を傳《つた》へて、松田憲秀《まつだのりひで》を誅《ちゆう》せしめた。
[#ここから1字下げ]
當城《たうじやう》(小田原)[#「(小田原)」は1段階小さな文字]立籠候人數《にたてこもりさふらふにんず》、大將之事《たいしやうのこと》は|不[#レ]及[#レ]申候《まをすにおよばずさふらふ》、下々迄《しも/″\まで》ほしころしにさせられるべきと|被[#二]思召[#一]候處《おぼしめされさふらふところ》、其方《そなた》一|人《にん》罷出《まかりいで》、是非《ぜひ》腹《はら》を仕候《つかまつりさふら》はん間《あひだ》、諸勢《しよぜい》|被[#レ]作[#レ]助候《たすけされられさふら》はゞ、|可[#レ]忝旨《かたじけなかるべきむね》申候由《まをしさふらふよし》、羽柴下總《はしばしもふさ》(瀧川雄利)[#「(瀧川雄利)」は1段階小さな文字]黒田尠解由《くろだかげゆ》(孝高)[#「(孝高)」は1段階小さな文字]兩人《りやうにん》懇《ねんごろに》|致[#二]言上[#一]候《ごんじやういたしさふらふ》其方《そのはう》申樣《まをすやう》神妙《しんめう》なる體《てい》、|被[#二]感思[#一]候間《かんじおぼされさふらふあひだ》、御法度《ごはつと》|無[#レ]之候《これなくさふら》へば、命之儀《いのちのぎ》|被[#レ]成[#二]御拯[#一]度《おんすくひなされたく》|被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふら》へ共《ども》、御法度之儀候間《ごはつとのぎにさふらふあひだ》、|無[#二]是非[#一]候《ぜひなくさふらふ》。但《たゞし》親候《おやにてさふらふ》氏政《うぢまさ》、並《ならびに》陸奧守《むつのかみ》(氏照)[#「(氏照)」は1段階小さな文字]大道寺《だいだうじ》(政繁)[#「(政繁)」は1段階小さな文字]松田《まつだ》(憲秀)[#「(憲秀)」は1段階小さな文字]四|人《にん》、所行《しよぎやう》にて表裏之段《へうりのだん》聞食《きこしめし》、不屆候條《ふとゞきにさふらふでう》、兩《りやう》四|人《にん》に腹《はら》を切《き》らせ、其方儀《そのはうぎ》は|被[#二]助置[#一]度《たすけおかれたく》|被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらふ》。是非《ぜひ》兩《りやう》四|人《にん》|可[#レ]被[#二]相究[#一]事《あひきはめらるべきこと》、|可[#レ]然候《しかるべくさふらふ》。今日《こんにち》罷出儀《まかりいでのぎ》は、感入思召候條《かんじいりおぼしめしさふらふでう》、外聞之儀者《ぐわいぶんのぎは》、天下《てんか》へ御請乞候間《おうけをこひさふらふあひだ》、心安存候《こゝろやすくぞんじさふらふ》べく候《さふらふ》。|爲[#レ]其《それがため》|如[#レ]此《かくのごとく》|被[#二]仰出[#一]候《おほせいだされさふらふ》。又《また》御自筆之《ごじひつの》御《おん》はしがきかきたる可《べ》く候《さふらふ》。是非《ぜひ》四|人《にん》|可[#レ]然候《しかるべくさふらふ》。
  七月五日
[#地から2字上げ]〔小早川什書〕[#「〔小早川什書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ秀吉《ひでよし》より、氏直《うぢなほ》に與《あた》へたる書簡《しよかん》だ。惟《おも》ふに氏直《うぢなほ》は氏政《うぢまさ》との協議《けふぎ》を竢《ま》たず、其《そ》の弟《おとうと》氏房《うぢふさ》と共《とも》に、城《しろ》より出《で》たのだ。何故《なにゆゑ》に斯《かゝ》る間際《まぎは》に於《おい》て、斯《かゝ》る擧動《きよどう》を敢《あへ》てした乎《か》は、分明《ぶんみやう》ではないが。兎《と》も角《かく》も氏直《うぢなほ》と氏政《うぢまさ》との父子《ふし》の意見《いけん》が、齟齬《そご》して居《ゐ》た丈《だけ》の事《こと》は、此《こ》れにて暗示《あんじ》せらるゝ。詳《つまびらか》に言《い》へば、氏政《うぢまさ》が餘《あま》りに頑張《ぐわんば》るから、氏直《うぢなほ》は獨斷的《どくだんてき》に出城《しゆつじやう》したのであらう。日本外史《にほんぐわいし》には、『秀吉《ひでよし》|以[#二]隱謀[#一]《いんぼうをもつて》|間[#二]疎父子[#一]《そのふしをかんそす》、故《ゆゑに》氏直《うぢなほ》惶惑《くわうわう》、|不[#レ]竢[#レ]約而出也《やくをまたずしていづるなり》。』と特筆《とくひつ》して居《ゐ》る。恐《おそ》らくは此《こ》の通《とほ》りであつたらう。
併《しか》し氏直《うぢなほ》の獨斷的降服《どくだんてきかうふく》は、輕卒《けいそつ》であつた。彼《かれ》は少《すくな》くとも何等《なんら》かの條件《でうけん》にて降服《かうふく》し、若《も》し其《そ》の條件《でうけん》が聞《き》き入《い》れられなければ、自決《じけつ》す可《べ》きであつた。然《しか》るに自《みづ》から何等《なんら》の據《よ》る所《ところ》なくして、徒《いたづ》らに出城《しゆつじやう》したのは、恐《おそ》らくは其《そ》の岳父《がくふ》たる家康《いへやす》を恃《たの》みとしたのであらう。併《しか》しながら間違《まちがひ》の本《もと》は、此《こゝ》にあつた。家康《いへやす》は吾家《わがいへ》が大切《たいせつ》か、北條家《ほうでうけ》が大切《たいせつ》かと云《い》へば、固《もと》より吾家《わがいへ》が大切《たいせつ》だ。此際《このさい》若《も》し北條家《ほうでうけ》の爲《ため》に周旋《しうせん》せん乎《か》、却《かへ》つて吾家《わがいへ》の大事《だいじ》を破《やぶ》る※[#こと、261-6]となるのだ。是《これ》を以《もつ》て北條家《ほうでうけ》の爲《た》めに言《い》ひたき事《こと》も、成《な》る可《べ》く口《くち》を※[#「口+休」、U+54BB、261-7]《つぐ》み、爲《な》したき事《こと》も、成《な》る可《べ》く手《て》を出《いだ》さず、只管《ひたす》ら其《そ》の嫌疑《けんぎ》を避《さ》くるに是《こ》れ汲々《きふ/\》であつた。されば氏直《うぢなほ》に取《と》りて助《たす》けの神《かみ》たる家康《いへやす》は、其《そ》の實《じつ》見捨《みす》ての神《かみ》であつた。氏直《うぢなほ》が家康《いへやす》を恃《たの》みたるは、恃《たの》む可《べ》からるを恃《たの》んだのだ。
或《あるひ》は曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
氏規《うぢのり》は徳川殿《とくがはどの》御陣《ごぢん》に參《まゐ》り、東西《とうざい》和睦《わぼく》の事《こと》を評議《ひやうぎ》し、伊豆《いづ》、武藏《むさし》、相模《さがみ》三ヶ|國《こく》を請取《うけとり》、人質《ひとじち》取《とり》かはし、城《しろ》を明渡《あけわた》すべき旨《むね》約定《やくぢやう》し、關白《くわんぱく》の證状《しやうじやう》まで賜《たま》はりければ、氏規《うぢのり》大《おほい》に安心《あんしん》し、然《しか》らば此趣《このおもむき》をもつて、氏政《うぢまさ》に和議《わぎ》をすゝむべしと、決定《けつてい》して立歸《たちかへ》り、七|月《ぐわつ》六|日《か》卯《うの》一|點《てん》に(午前六時)[#「(午前六時)」は1段階小さな文字]澁谷口《しぶやぐち》より小田原城《をだはらじやう》へ入所《いりしところ》、こはいかに氏直《うぢなほ》は十|郎氏房《らううぢふさ》が頻《しきり》にすゝめければ、今晩《こんばん》早《はや》く羽柴下總守雄利《はしばしもふさのかみかつとし》が陣《ぢん》に降參《かうさん》に出《いで》たりと。……斯《か》く相違《さうゐ》して、氏直《うぢなほ》は氏規《うぢのり》に逢《あ》はず、麁忽《そこつ》に降參《かうさん》せしは、如何《いか》なる故《ゆゑ》と云《い》ふに、小田原城中《をだはらじやうちゆう》にては、此時《このとき》既《すで》に氏政父子《うぢまさふし》の間《あひだ》に、違亂《ゐらん》の事《こと》出來《でき》て、氏直《うぢなほ》父《ちゝ》とも熟談《じゆくだん》せず。只《たゞ》十|郎《らう》が申旨《まをすむね》に從《したが》ひ、早々《さう/\》城《しろ》を出《い》で降參《かうさん》せしなり。是《こ》れ併《しか》しながら秀吉公《ひでよしこう》詐謀《さぼう》の致《いた》す所《ところ》と知《し》られける。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
氏規《うぢのり》の條件《でうけん》は、餘《あま》りに好條件《かうでうけん》だ。果《はた》して此通《このとほ》りの條件《でうけん》であつた乎《か》、否乎《いなか》は、姑《しば》らく措《お》き、氏直《うぢなほ》が無條件降服《むでうけんかうふく》の徑行《けいかう》は、此《こ》の通《とほ》りであつたらう。彼《かれ》は與《とも》に諮《はか》る可《べ》き父《ちゝ》氏政《うぢまさ》と諮《はか》らずして、與《とも》に恃《たの》む可《べ》からざる岳父《がくふ》家康《いへやす》を恃《たのみ》とし、遂《つひ》に虻蜂《あぶはち》與《とも》に取《と》らざる始末《しまつ》となつた。

[#5字下げ][#中見出し]【五四】北條氏の末路[#中見出し終わり]

如何《いか》に考《かんが》へても、北條氏《ほうでうし》の末路《まつろ》は悲慘《ひさん》であつた。氏直《うぢなほ》の投降《とうかう》は、全《まつた》く弱羊《じやくよう》が狼《おほかみ》に向《むか》つて、憐《あはれみ》を乞《こ》ふ姿《すがた》であつた。吾人《ごじん》は氏直《うぢなほ》に向《むか》つて同情《どうじやう》を表《へう》するが、さりとて其《そ》の措置《そち》の輕忽《けいこつ》を見逃《みのが》す譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。憐《あはれ》む可《べ》きは、寧《むし》ろ氏政《うぢまさ》だ。彼《かれ》は氏直《うぢなほ》の太早計《たいさうけい》の爲《た》めに、遂《つひ》におめ/\と死地《しち》に就《つ》かねばならぬ事《こと》となつた。秀吉《ひでよし》は當初《たうしよ》より北條氏《ほうでうし》に對《たい》しては、寛典《くわんてん》を與《あた》へざる覺悟《かくご》であつた。氏規《うぢのり》の秀吉《ひでよし》より贏《か》ち得《え》たりと稱《しよう》する、相模《さがみ》、武藏《むさし》、伊豆《いづ》三|個國《かこく》を、北條氏《ほうでうし》に與《あた》ふる條件《でうけん》の如《ごと》きは、恐《おそ》らくは事實《じじつ》でなく、假令《たとひ》事實《じじつ》とするも、秀吉《ひでよし》の本意《ほんい》でなかつたであらう。秀吉《ひでよし》の胸中《きようちゆう》には、業《すで》に已《すで》に徳川家康《とくがはいへやす》に、關《くわん》八|州《しう》の新領主《しんりやうしゆ》が、定《さだま》つて居《ゐ》た。
但《た》だ氏政《うぢまさ》の死《し》に就《つい》ては、隨分《ずゐぶん》宥恕《いうじよ》の運動《うんどう》もあつた※[#こと、263-10]と思《おも》はるゝ。七|月《ぐわつ》七|日附《かづけ》、井伊直政《ゐいなほまさ》の淺野長政《あさのながまさ》に答《こた》へたる書中《しよちゆう》に、
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隨而《したがつて》當城《たうじやう》(小田原)[#「(小田原)」は1段階小さな文字]之儀《のぎ》、昨日《さくじつ》六|日《か》に、榊原式部大輔《さかきばらしきぶたいふ》(康政)[#「(康政)」は1段階小さな文字]入申候《いりまをしさふらふ》。今日《こんにち》本城《ほんじやう》相渡申候由候《あひわたしまをしさふらふよしにさふらふ》。氏直《うぢなほ》は|于[#レ]今《いまに》羽柴下總《はしばしもふさ》(瀧川雄利)[#「(瀧川雄利)」は1段階小さな文字]陣所《ぢんしよ》に|被[#レ]居候《をられさふらふ》。氏政《うぢまさ》には腹《はら》を仕候《つかまつりさふら》へと、御諚《ごぢやう》に候《さふら》へども、種々《いろ/\》御詫言《おんわびごと》に候之間《さふらふのあひだ》、|相濟可[#レ]申《あひすみまをすべき》かと存候《ぞんじさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。此《こ》の御詫事《おんわびごと》は、家康《いへやす》より持《も》ち出《いだ》したの乎《か》、將《は》た誰《たれ》の口《くち》より出《い》でたる乎《か》、井伊抔《ゐいなど》が斯《か》く云《い》ふ程《ほど》なれば、氏政《うぢまさ》の運命《うんめい》も、生死《せいし》の間《あひだ》を彷徨《はうくわう》したのであらう。併《しか》し秀吉《ひでよし》の意志《いし》は、當初《たうしよ》より一|決《けつ》して居《ゐ》たに、相違《さうゐ》ない。
秀吉《ひでよし》は片桐直倫《かたぎりなほのり》、脇坂安治《わきざかやすはる》、及《およ》び徳川《とくがは》の部將《ぶしやう》榊原康政《さかきばらやすまさ》をして、城《しろ》を收《をさ》めしめ、嚴《げん》に鹵掠《ろりやく》を禁《きん》じ、諸口《しよぐち》の圍《かこみ》を解《と》き、七|日《か》より三|日《か》を限《かぎ》りて、城兵《じやうへい》を放《はな》つた。
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五|日《か》 雨《あめ》降《ふる》。氏直《うぢなほ》内府樣《ないふさま》(信雄)[#「(信雄)」は1段階小さな文字]衆《しゆう》羽柴下總《はしばしもふさ》陣所《ぢんしよ》に|走入被[#レ]成候而《はしりいりなされさふらうて》、關白樣《くわんぱくさま》へ御詫言候《おんわびごとさふらふ》。
六|日《か》 城中《じやうちゆう》へ關白樣《くわんぱくさま》小姓衆《こしやうしゆう》貮|人《にん》、此方《こちら》にて榊原式部太輔《さかきばらしきぶだいふ》うけとりにこされ候《さふらふ》。
七|日《か》 城中《じやうちゆう》關東衆《くわんとうしゆう》皆々《みな/\》御出《おんいだ》し候《さふらふ》。
八|日《か》 地下人《ぢげびと》出候《いだしさふらふ》。
九|日《か》 地下人《ぢげびと》出候《いだしさふらふ》。
十|日《か》 殿樣《とのさま》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]城《しろ》へ御《お》うつり候《さふらふ》、城中《じやうちゆう》見物《けんぶつ》にこし候《さふらふ》。
十一|日《にち》 氏政《うぢまさ》同弟《どうおとうと》奧州《あうしう》(氏照)[#「(氏照)」は1段階小さな文字]に腹《はら》を御《おん》きらせ候《さふらふ》。〔家忠日記〕[#「〔家忠日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
要領《えうりやう》は全《まつた》く此《こ》の通《とほ》りだ。
尚《な》ほ家忠日記《いへたゞにつき》追加《つゐか》には、左《さ》の記事《きじ》がある。
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九|日《か》 北條氏政《ほうでううぢまさ》其弟《そのおとうと》氏輝《うぢてる》(氏照)[#「(氏照)」は1段階小さな文字]等《ら》醫師《いし》安栖《あんせい》が宅《たく》に移《うつ》る。秀吉《ひでよし》の云《いは》く、今度《このたび》吾《わ》れ東行《とうかう》の事《こと》、一|偏《ぺん》に北條氏《ほうでうし》を撃滅《うちほろぼ》さんが爲也《ためなり》。然《しか》るに今《いま》悉《こと/″\》く是《これ》を宥《なだ》めば、前言《ぜんげん》僞《いつは》るに似《に》たり。氏政《うぢまさ》氏輝《うぢてる》を殺《ころ》して、氏直《うぢなほ》を赦《ゆる》さんと欲《ほつ》するの由《よし》、大神君《だいしんくん》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]に是《これ》を議《ぎ》す。大神君《だいしんくん》是《これ》を諾《だく》し給《たま》ふ。
十|日《か》 大神君《だいしんくん》小田原《をだはら》の城《しろ》に移《うつ》り給《たま》ふ。
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く、憐《あはれ》む可《べ》し、氏政《うぢまさ》、氏照《うぢてる》は、九|日《か》城《しろ》を出《い》でゝ、醫師《いし》田村安栖《たむらあんせい》の家《いへ》に屏居《へいきよ》した。十一|日《にち》に至《いた》りて、秀吉《ひでよし》は石川貞清《いしかはさだきよ》、蒔田廣定《まきたひろさだ》、佐々行政等《さつさゆきまさら》をして、切腹《せつぷく》を申《まを》し付《つ》けた。家康《いへやす》も亦《ま》た康政《やすまさ》、直政《なほまさ》をして、陪席《ばいせき》せしめ、一千五百|人《にん》を以《もつ》て、之《こ》れが警備《けいび》をした。監使等《かんしら》の來《きた》るや、氏照《うぢてる》は其《そ》の色《いろ》を察《さつ》し、定《さだ》めて吾等《われら》生害《しやうがい》の御催促《ごさいそく》なる可《べ》し、姑《しば》らく湯沐《たうもく》の猶豫《いうよ》を請《こ》ふとて、身支度《みじたく》をし、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》和歌《わか》を詠《えい》じて、自刄《じじん》した。
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雨雲《あまぐも》の覆《おほ》へる月《つき》も、胸《むね》の霧《きり》も、拂《はら》ひにけりな、秋《あき》の夕風《ゆふかぜ》。
我身《わがみ》今《いま》消《きゆ》とや、いかに思《おも》ふべき、空《そら》より來《きた》り、空《そら》に歸《かへ》れば。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れは氏政《うぢまさ》の辭世《じせい》だ。彼《かれ》は行年《ぎやうねん》五十三、慈雲院殿《じうんゐんでん》とは、其《そ》の法號《ほふがう》だ。
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吹《ふく》と吹《ふく》風《かぜ》ないとひそ、花《はな》の春《はる》、紅葉《もみぢ》の殘《のこ》る、秋《あき》あらばこそ。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れは氏照《うぢてる》の辭世《じせい》だ。
小田原記《をだはらき》に曰《いは》く、
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天正《てんしやう》十八|年《ねん》寅《とらの》七|月《ぐわつ》十七|日《にち》、御最後《ごさいご》の節《せつ》、伊豆檢校《いづけんげう》、御前《ごぜん》に在《あり》けるが、後《のち》に物語《ものがたり》に聞侍《きゝは》べる。氏照《うぢてる》は陸奧守《むつのかみ》、從《じゆ》五|位下《ゐげ》、平朝臣《たひらのあそん》|號[#二]心源院[#一]《しんげんゐんとがうす》。兄弟《きやうだい》目《め》と目《め》を見合《みあはせ》、いざさせ給《たま》へ、御供申《おともまを》さんとて、左《ひだり》の脇《わき》に御刀《おんかたな》を押立《おしたて》、右《みぎ》へ引廻《ひきまは》させ給《たま》へば、美濃守氏規《みののかみうぢのり》御首《おんくび》を打落給《うちおとしたま》ひ、其刀《そのかたな》を取直《とりなほ》し、押肌《おしはだ》脱《ぬ》がせ給《たま》ふ所《ところ》を、井伊兵部《ゐいひやうぶ》(直政)[#「(直政)」は1段階小さな文字]走《はし》り寄《よ》り、抱《いだ》き捕《とらへ》て助《たす》け申《まをす》。其《そ》の紛《まぎれ》に陸奧守《むつのかみ》の御首《おんくび》を小姓《こしやう》山角牛太郎《やまずみうしたらう》(山角主税の子、當年十六歳)[#「(山角主税の子、當年十六歳)」は1段階小さな文字]盜《ぬす》み捕《と》り落《おち》て行《ゆく》を、漸《や》う/\賺《すか》して取返《とりかへ》し、公卿《くげう》に据《す》ゑける。牛太郎《うしたらう》忰《せがれ》主《しゆ》の爲《た》めを思《おも》はんとて、家康公《いへやすこう》へ召出《めしいだ》し給《たま》ふ。
[#ここで字下げ終わり]
當時《たうじ》の光景《くわうけい》、全《まつた》く見《み》るが如《ごと》しだ。氏規《うぢのり》は此《かく》の如《ごと》くして不思議《ふしぎ》にも、一|命《めい》を存《ながら》へ、北條氏《ほうでうし》の血統《けつとう》を、後世《こうせい》に繼《つた》ふる※[#こと、267-6]となつた。
秀吉《ひでよし》は氏政《うぢまさ》、氏照《うぢてる》の首級《しゆきう》を、京都《きやうと》一|條《でう》の戻橋《もどりばし》に梟《けう》し、十九|日《にち》大道寺政繁《だいだうじまさしげ》を、江戸《えど》櫻田《さくらだ》に誅《ちゆう》した、七|月《ぐわつ》十二|日《にち》、秀吉《ひでよし》は氏直《うぢなほ》を、高野山《かうやさん》に放《はな》つた。同日付《どうじつづけ》にて、秀吉《ひでよし》の加藤清正《かとうきよまさ》に與《あた》へたる書中《しよちゆう》に曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
昨日《さくじつ》十一、北條氏政《ほうでううぢまさ》、同陸奧守《どうむつのかみの》|刎[#レ]首《くびをはね》、即刻《そくこく》京都《きやうと》へ差上候《さしのぼしさふらふ》。氏直事《うぢなほこと》、家康《いへやすの》|依[#レ]爲[#二]縁者[#一]《えんじやたるにより》、一命《いちめいを》助候《たすけさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
と。氏直《うぢなほ》の助命《じよめい》は、全《まつた》く家康《いへやす》の聟《むこ》であると云《い》ふが、理由《りいう》であつた。彼《かれ》は二十|日《か》小田原《をだはら》を發《はつ》した。氏邦《うぢくに》、氏規《うぢのり》、氏忠《うぢたゞ》、氏堯《うぢたか》、氏房《うぢふさ》、及《およ》び松田直憲《まつだなほのり》、大道寺直繁等《だいだうじなほしげら》三十|人《にん》、卒《そつ》三百|餘人《よにん》相從《あひしたが》うた。秀吉《ひでよし》は五百|人扶持《にんふち》を與《あた》へた。十一|月《ぐわつ》十|日《か》、山上《さんじやう》の寒《さむさ》酷《きび》しきが爲《た》めに、山下《さんか》の天野《あさの》に居《を》らしめた。十九|年《ねん》春《はる》は堺浦《さかひうら》に移《うつ》し、秋《あき》は大阪《おほさか》に召《め》し、河内《かはち》にて一|萬石《まんごく》を給《きふ》し、明年《みやうねん》を以《もつ》て伯耆《はうき》一|州《しう》を與《あた》へんとしたが、不幸《ふかう》にして痘《とう》を患《うれ》ひ、十一|月《ぐわつ》四|日《か》、二十九|歳《さい》にて逝《ゆ》いた。
新井白石《あらゐはくせき》は曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
北條《ほうでう》の亡《ほろ》び初《はじ》めより、終《をはり》に至《いた》る迄《まで》、事《こと》皆《み》な違變《ゐへん》のみ出來《いできたつ》て、終《つひ》に事《こと》破《やぶ》れき。想《おも》ふに悉《こと/″\》く秀吉《ひでよし》の姦謀《かんぼう》に出《い》でたりと見《み》えしなり。氏直《うぢなほ》もまた毒殺《どくさつ》され給《たま》ひしといふ人《ひと》もあり。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
[#ここから1字下げ]
と。併《しか》し此《こ》れは餘《あま》りに穿《うが》ち過《す》ぎた論《ろん》で、北條氏《ほうでうし》の亡滅《ばうめつ》は、寧《むし》ろ自業自得《じごふじとく》と云《い》ふ可《べ》きだ。
氏直《うぢなほ》の高野山《かうやさん》に赴《おもむ》くや、氏勝《うぢかつ》も自《みづ》から其《そ》の隨行《ずゐこう》を期《き》した。然《しか》も家康《いへやす》は彼《かれ》が第《だい》一の歸降者《きかうしや》にて、其功《そのこう》少《すくな》からざるを申《まを》し立《た》て、若《も》し斯《か》く爲《な》さしめば、後來《こうらい》歸降者《きかうしや》の道《みち》を塞《ふさ》がんと諫《いさ》めたから、本領《ほんりやう》安堵《あんど》を命《めい》じ、家康《いへやす》に屬《ぞく》せしめた。而《しか》して秀吉《ひでよし》は又《また》、氏規《うぢのり》の忠勇《ちゆうゆう》を思《おも》ひ、十九|年《ねん》八|月《ぐわつ》、河内《かはち》にて三千|石《ごく》を給《きふ》し、文祿《ぶんろく》三|年《ねん》、更《さ》らに河内《かはち》の狹山《さやま》一|萬石《まんごく》に封《ほう》じ、其《そ》の子《こ》氏盛《うぢもり》、父《ちゝ》の祿《ろく》を襲《おそ》ふに方《あた》り、氏直《うぢなほ》の後《のち》を承《う》けしめ、以《もつ》て北條氏《ほうでうし》の祀《まつり》を存《そん》した。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]氏直高野山に入る
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
七月二十日氏直小田原を發足せらる。相隨ふ人々には、太田十郎氏房、北條安房守氏邦、美濃守氏規、左衞門佐氏忠、右衞門佐氏堯、松田左馬助、内藤左近大夫、福島伊賀守入道、塀和《はが》左兵衞尉、依田大膳亮、山上郷右衞門、諏訪部宗右衞門、大道寺孫九郎、菊池七兵衞以下、士三十人、雜兵凡三百人なり。大神君より御見送りとして、榊原康政を差添らる。秀吉懇情を施され旅中の障り無からん爲とて、警固の士驛路の傳馬道すがらの賄ひを宛課せられ、高野山に至れば、二萬人の扶持料賜ひ、其外雜用調度以下注文を以て下行せらる。然るに彼山は寒冷殊に甚敷の由、殿下聞及び給ひ、是を勞はり、翌年辛卯(是年庚寅の誤)十一月十日、件の面々を天野の地に移し、衣服酒茶の類までも豐に惠み贈られたり。壬辰(辛卯)の春、氏直泉南の興應寺へ來り、半年計りも滯留の間、秀吉公大坂の城に招き、會面し賜ひ、北畠信雄の舊宅に居しめ、白米三千俵を賜り、其後來春に西國中國の内にて一州を宛行はるべき約諾有しに、氏直痘瘡を病て、順快を不[#レ]得、十一月四日三十歳にて逝去せらる。左ばかりの豪家と云ひ、大神君の聟君と云ひ、殿下にも慈惠を加へられしに、誠に是非なき次第なり。舍弟十郎氏房は翌年癸巳[#割り注]○壬辰(文祿元年)ノ誤[#割り注終わり]四月二十日、肥前國唐津の陣中に於て、是も亦疱瘡を患ひ、不幸短命にして二十八才にして卒去也。爰に於て北條家正統は斷絶したりける。〔關八州古戰録〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
         ―――――――――――――――
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